第2131日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第3章:〈神のために力を合わせて働く〉withかの者に他者を慮る想像力はあるか?〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第3章です。

 一コリ3:1-23〈神のために力を合わせて働く〉
 コリント教会に集う兄弟たちよ、わたしはあなた方に対しては乳飲み子へ語りかけるような調子で語りかけた。つまり、霊の人に対してではなく、肉の人であるがために、ひたすら平易に語りかけるよう努めたのです。いま再びあなた方に語りかけよ、といわれれば、同じようにするでしょう。というのも、あなた方は未だ肉の人だからです。
 「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」(一コリ3:3)
 あなた方が群れなす派閥の頭に掲げるアポロとかパウロとかは、いったい何者ですか。かれらはあなた方を信仰へ導くため、主により与えられた分に応じて働いているに過ぎないのですよ。たしかにパウロが植え、アポロが水を遣りました。が、育てたのは神です。植える者と水遣りする者は同じ役割を担います。それぞれは働きに応じて神の報酬を得ます。つまり、われらは神のために力を合わせて働く者なのです。
 コリントの兄弟たちよ。あなた方は神の畑、神の建物です。わたしは神から授けられた恵みにあやかって、腕利きの建築家の如くあなた方のなかに家を建てるための基礎を造りました。あなた方はこの基礎の上に家を建てることになりますが、「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(一コリ3:12-15)
 ──あなた方は聖なる神の神殿です。神殿は都ではなく、あなた方の内に在るのです。即ち、神の霊はあなた方の内に住んでいるのです。神の神殿を内に宿すあなた方を殺傷する者あらば、神は其奴を滅ぼすことでしょう。──
 何人も自分を欺くなかれ。あなた方のなかには、自分は知恵ある者だ、と自負する人がいるかもしれません。が、それはよろしくない。本当に知恵ある者となるためには愚かな者にならなくては。なんとなれば神の前にあってはこの世の知恵なぞ意味を持たぬからであります。義の人ヨブの物語にも詩篇にも、そのことは書かれています。
 それゆえにコリント教会へ集いし兄弟たちよ、何人と雖も人間を誇るなかれ。使徒も世界も生も死も、すべてはあなた方のもの。現在の出来事も将来の出来事もあなた方のもの。
 「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(一コリ3:22-23)

 神殿はエルサレムに在るのに非ず、あなた方の内にこそ在り。
 シンプルながら心の襞の奥の奥にまで染みこんでくる、すばらしいメッセージだと思います。勇気附けられますし、あたたかく、敬虔な思いが感じられる。たしか福音書のどこかに、神は神殿に住まないなる趣旨の文言があったはずで、いまはちょっと見附けられなかったけれど、否応なくこの文言を想起させ、結び合わさせるのであります。福音書ではなく旧約聖書だったかもしれませんが、このあと探してみます。
 エルサレム神殿に神は住まない。ではどこに?あなた方の内に神殿が在り、そこに神は住む──万人が神を自分の内に持っている、義により正とされる信仰の、その源は実はあなた方自身のなかにあるのですよ。
 こんなメッセージを贈られたらほんの一時であったとしても、篤信を以て<らしく>生活しますよね。でも、コリントの信徒たちはそう一筋縄ではゆかぬ、換言すればそれ程単純ではなかったようで……。

 本日の旧約聖書は一コリ3:19とヨブ5:13、一コリ3:20と詩94:11。



 特段ガジェット好きでもなく、それのレヴュアーでもないので詳しくはないのだが、スマホのカメラ機能には少々問題があるように見受けられる。機能というよりも、レンズ周辺に難あり、というべきかな。
 どういうことかといえば、仮にカメラを起動させて撮影スタンバイの状態であっても、レンズ周辺のどこかが点灯することもなく、レンズを向けられているだけでは撮影されているのかどうか、判断しにくい、ということだ。序にいえばシャッター音だって限りなくサイレントに近い状態にすることができるのだから、尚更というべきであろう。
 今日もスタバで当事者を演じる羽目になったのだが、向かい合わせで坐ってきた小柄かつ丸顔黒縁眼鏡の薬指に指輪ありきの女輩。おもむろに肘を突き、目線の高さまでスマホを掲げおった。背面に付くレンズはわずか数分の例外を除いて常に、まっすぐわたくしへ向けられていた。
 かの女輩に写真撮影、ビデオ撮影される理由はないし、有名人になった覚えもない。また撮影されている確証とてないので、気にはなりつつも無視を続ける。
 が、実に不快である。気持ち良くもない。もし自分がレンズを向けられる側だったらどんな気持ちになるか、どうやらこのゴーゴンにはそれを忖度するような想像力はないらしい。数片なりともあれば斯様な行動は取れないと思うだが……。いったいどんな風に育てられたらこういうのが出来上がるのだろう。その生育過程を観察日記片手に実見したいものである。
 此奴首謀の<レンズ俺様に向けたまま事件>は開始から約40分後、先方の退出によって収束した。途中何度かわたくしもそちらへ目を向けたが──視線の方向に外界が見えるのだ、文章につまったり、言葉や表現を考えあぐねてそちらを見るのはいつものことだ──都度悪党は深き眼鏡のレンズの奥から不快の眼差しと表情と、舌打ちを送って寄越すばかりであった。
 ──そうそう、わたくしも試みにiPhone6Sを目線にかざして左目の痛む箇所を映してみたら、この御仁、目ン玉ひん剥いて拳でテーブルを一発ガツン、と叩きおった。周辺からの注目を一身に浴びたその方はさぞ満足そうなお顔をされていたっけなぁ。あら可笑しいね、オッペケペッポー、ペッポッポー。
 まあ囃し立てるのはさておき、想像力なき者、あっても貧困なる想像力しか持たぬ者は、公共の場でのエチケットに気を回すこと、他人の快不快に思いを馳せること、いずれにも縁なき衆なのでしょうか。だとすれば、哀れであります。かれら自身の将来がどのようなものであっても気にしないが、かれらが将来この国を支えるのだと思うと、恐怖に身震いが止まりません。何度か痛い目に遭ってパウロの如く回心の機を得られればいいのですが。
 なお、これは問題提起であって糾弾ではありません(バタイユ風にいうてみた)。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。