第2133日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第5章:〈不道徳な人々との交際〉with縁なき街、名古屋。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第5章です。

 一コリ5:1-13〈不道徳な人々との交際〉
 仄聞するところでは、兄弟たちよ、あなた方のなかには、異邦人たちの間でさえついぞ行われたことのないような、淫蕩な行為に耽る者らがいるそうですね。にもかかわらず、あなた方は未だ高ぶったりしているのか。なんと悲しいことだろう。あなた方は自ら高ぶるよりも先に、淫蕩な行為に耽る者らを追放すべきだったのです。
 「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」(一コリ5:3-5)
 パンを作るときのことを考えてください。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることがあるでしょう。わたしがあなた方に、自らを誇るな、とはそうしたことなのです。あなた方にはいつも新しい練り粉でいてほしい。入りこんだ古いパン種は取り除きなさい。かつてイスラエルが出エジプトを果たしたとき、神は先祖の家の前を過ぎ越して、エジプト人の家庭から初子の命を奪いました。それに因んでわれらの先祖は酵母の入っていないパンを食べるようになったのです。
 あなた方は、この酵母の入っていないパンです。キリストがわれらの過越の小羊として屠られているからであります。さあ、古いパン種や邪悪と悪意のパン種は用いたりせず、純粋にして真実のパン種で過越祭を祝おう。
 ──わたしは以前、不道徳な者とは交際するな、と手紙のなかで書きましたが、その対象となるのは世の人々ではありません。もしそうならば、あなた方がこの世から消えた方が遥かに良いでしょう。わたしがいうのは、あなた方のなかにいる不道徳な者のことです。かれらとは食事の席を一緒にせず、交わったりするな、とわたしはいうのですよ。
 世の人々、つまり外部の人々を裁くのは、わたしの役目ではありません。それは神が為すべきことです。あなた方は内部の人々、つまり教会へ集う信徒たちのなかにいる不道徳な人々をこそ裁くべきでありましょう。「申命記」に書かれています、あなた方のなかから悪い者を取り除くべし、と。

 純粋ななかから不純物を取り除け。これが通用するのは専ら信仰によって結ばれた集団に於いてでありましょう。これ即ち、原理主義の出発点であります。本章でそれは、清らかなる体と魂の持ち主の集団からアウトサイダー、不道徳な者を排除せよ、という表現、忠告に代わる。
 パウロの思想、ひいてはキリスト教神学の合理的な面をわたくしは本章に見ました。不道徳な者との交際は断て、というのは世間の人々を対象にしていうたのでは、断じてない。もしかれらを対象にして斯くいうたならば、そうしてそれを実行しようとするならば、あなた方は世の中から出て行くより他にない。
 よくわかる文言、よくわかる考えであります。そうしてパウロは実によくキリスト者と非キリスト者の相関関係をわかっている人であります。夏目漱石『草枕』ではありませんが、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい」なのであります。
 押すべきは押し、引くべきは引く。所詮、完全なる理解なんて互いにできないのだから、せめて共通目的で括られた集団のなかでは信条の純血を謀りましょう。──口は悪いが、このパウロの考え、キリスト教の神学の根底にあるのはそういうことでありましょう。換言すればソドムとゴモラを忌避し、その再現を厭うがゆえのことでもあったやもしれませんね。
 なお本章で不道徳な者の例としてパウロが掲げるのは、以下のような人々であります、──
 ・淫らな者
 ・強欲な者
 ・偶像を礼拝する者
 ・人を悪くいう者
 ・酒に溺れる者
 ・人の物を奪う者

 本日の旧約聖書は一コリ5:7-8と出12:11-15及び20、一コリ5:13と申17:7。



 結局のところ、名古屋へ行くのは断念してやさぐれた日々を過ごすみくらさんさんかであるぞ。
 なんというかね、わたくしは本当に名古屋という街と縁がない。発端が何であったかは忘れたが、1つの象徴的出来事はやはりSKE48のナゴヤドーム単独公演に行きそびれたことであろう。チケットはあったのだ。耳の不調を押して参戦するつもりであったのだ。両耳の完全失調も覚悟でコンサートに行くつもりだったのだ。
 が、行かなかったのである。行けなかった、というのが正確だ。私事ゆえ説明を差し控えるが、このときは本当に口惜しかったな! 憤激極まって公演DVDは持っていても未だ再生どころか開封すらしていない程である。
 さほど斯様にわたくしは名古屋と縁がない。通過駅、乗換駅でしかないならそれでもよいさ。いまはそのときではない、ということだからね。しかし<そのとき>がいつなのか、そもそんな機会が巡ってくるのかすらも、不信心なわたくしにはわからないのだよ、バートルビー。
 源氏物語絵巻の全点展示は、待てばいずれ再びそのときも訪れよう。嗚呼、妻よ、せめてその機会に浴す日までわれを召すなかれ。◆

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