第2135日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第7章:〈結婚について〉、〈主が定めた生き方〉&〈未婚の人たちとやもめ〉with蔵書処分に目眩する:つぶやきなう。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第7章です。

 一コリ7:1−16〈結婚について〉
 また、あなた方からの別の質問に答えるならば、男は女に触れたりしない方が良いのです。が、──
 「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。」(一コリ7:2−5)
 こういうたからとて、わたしはそうすることをあなた方へ求めているのではありません。そうしたければそうすればいいんじゃないですか、という程度の話です。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(一コリ7:7)
 未婚者、バツイチ、バツニ不問で離婚者たちへ、わたしはいいたい。皆、わたしのように独り者でいるのがいちばん良いのです。もしあなた方に相愛の相手ができて、カレ氏カノジョに情欲を覚えてもう抑えられないな、と思うたならば、まぁ結婚するがいいのです。「情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(一コリ7:9)
 夫も妻も信者である既婚者へ。離婚するな。配偶者を離縁したりしないように、これはわたしではなく、主の言葉です。
 夫婦のどちらかが信者であり、どちらかが信者でない既婚者は、わたしパウロが自分の言葉でお伝えしましょう。非キリスト者の配偶者があなたと、生活も寝食も共にしたいと願う限り、その配偶者を離縁してはなりません。というのも、非キリスト者の配偶者はキリスト者であるあなた方によって聖なる者とされているからです。為にあなた方の子供も汚れた者ではなく聖なる者であるわけです。
 さりながら由あって非キリスト者の配偶者があなたから去るならば、そのまま去るに任せておけば良い。残されたあなたは結婚に縛られることなく、平和な生活を送りなさい。それが、神があなたを召す理由です。
 夫を救える、と思うな。妻を救える、と思うな。かれらを信仰の道に入れさせられる、と思うな。どうしてそんなことができると考えるのか。

 一コリ7:17−24〈主が定めた生き方〉
 あなたは、召されたときの身分のまま、体の状態のまま、神の前に留まりなさい。
 バツイチは再婚しようとするな。未婚者は結婚しようと考えるな。割礼を受けた者はその跡を消すな。割礼を受けていない者は受けようと考えるな。
 奴隷のまま召された者は、身代金を払って買い取られた、キリストの奴隷です。人間の奴隷にななり給ひそ。
 もう一度いいます。あなた方は召されたときの身分のまま、体の状態のまま、神の前に留まるようにしなさい。

 一コリ7:25−40〈未婚の人たちとやもめ〉
 わたしは主の指示を受けているわけではないけれど、主の憐れみによって信任を得ている者なので、未婚者とやもめの人たちにいいますね。
 現状維持にこれ努めなさい。いまのままでいることを選ぶのです。男は妻を求めるな。女は夫を求めるな。
 が、かりに未婚者やバツの付いた独身者が婚姻したからとて、それは別に罪にあたりません。「ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。」(一コリ7:28)……まぁ、そういうことです。この世の有様はすぐに変わって過ぎ去ってゆくのですから。
 独身の男女は主ありきの生活を送り、主をのみ思うて生活します。が、既婚者はそうもいきません。互いに妻に、夫に心を遣い、その一方で主へも心を遣う。かれらはこの世のことにも主のことにも心を遣うので、心が2つに分かれてしまっています。──斯様に申しあげるのは、偏にあなた方を思うがゆえのことであり、束縛するためでは決してありません。品位ある生活を過ごし、ひたすら主に仕えてほしいから、こう申しあげるのですよ。
 「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。」(一コリ7:36−38)
 既婚者よ、妻が、夫が故人となったならば、再婚したって構いませんよ。但し、新たな伴侶はキリスト者でなくてはなりません。ですが、本当はそのままやもめでいる方がずぅっと良いのです。神の霊を受けているわけですからね。

 なんだかパウロの天邪鬼ぶり、へそ曲がりぶりが炸裂した一章であります。結婚したければするがいいのさ。でもわたしみたく独り者でいるのがいちばん良い方法なのだけれどね。まるで自分の選択が<たった一つの冴えたやり方>であるかのような開き直りようです。1つの意見を巧みに組み替えて論を練りあげてゆき、質問者への回答に仕立てあげるその手腕、<弁舌の人>パウロの本領を窺い知った気分であります。
 正直なところ、論旨の微妙なすり替えには唖然とさせられもするのですが、あくまでこれはわたくし個人の読み方なので、真面目なキリスト者やきちんと信仰心を持って聖書を読んでいたりする方々には気に喰わぬやもしれませんね。しかし、まだ辛うじて言論統一、思想弾圧に最後の一線を守り切れているこの国ならば、この程度の意見は呈しても問題ありますまい。が、このようにしていると、逆境のなかにあってひたすら宣教にこれ努めたパウロの気持ちもわかりかけてくるのでありますよ。
 いや、しかし本章はわたくしのような者にはツライ、辛い。暗にわが身が糾弾され、ぶった切られている気さえ致します。
 一方で、一コリ7:13「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはならない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ」云々には打ちのめされましたよ。──肉なる夫と霊なる妻にもそれは該当するのか、未だわたくしはあの子ゆえに聖なる者でいられているのか。嗚呼、妻なりし女性の命日のあとでこうしたものを読むなどまさしく拷問、残酷でありますよ。
 パウロは殉教の頃は妻帯者であった、といいます。伴侶が如何なる人なのか不明ですが、それに対する羨望はちょっと脇に置いておく。おそらく本書簡が書かれた時代はパウロも独身であった様子。<結婚したければそうしなさい、でもわたくしはそうしない方がいいと思うのです>なるハーマン・メルヴィル描く書写人バートルビーを彷彿とさせるパウロの口調には、この時分のパウロの等身大の姿が反映し、心情も投影されているように思うのであります。何だ彼だいうてもパウロとて人間ですからね……いったいあなたになにがあったのか、パウロよ!?
 ──本章と<愛>を謳った第13章に、思想の齟齬が窺えるのは気のせいなのか。忘れぬよう、ここにメモしておく。



 読みたい本だけを手元に置く、というのはやはり難事業だ、と実感。今週後半の3連休でどれだけ片附けられるか? 迷ったら貸倉庫行き、というのは処分しないに等しいから、まったく以て困るのだ。果たしてみくらさんさんかは本を処分することができるのか。乞うご期待。◆

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