第2137日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第9章:〈使徒の権利〉with奈良旅行の折、秋篠寺を訪れたこと。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第9章です。

 一コリ9:1-27〈使徒の権利〉
 わたしは使徒です。あなた方はわたしの働きの成果です。他の者らにとってわたしは歯牙にも引っ掛からぬ存在かもしれない。が、あなた方にとってわたしは使徒なのだ。主キリストを見た使徒なのです。
 批判者諸兄よ、あなた方にお訊きしたい。わたしには飲食する権利もなければ、信者なりし妻を得て伴い歩くこともできないのか。わたしとバルナバは、生活の資を得るための仕事をしてもいけないのか。
 そこにそれがあるのにそれを得ようとしない者がいるのか。
 わたしはあなた方に霊的なものを蒔きました。だからといって、わたしがあなた方から、あなた方の肉なるものを刈り取ろうとするのは、果たして過ぎたる行為なのでしょうか。
 他の者たちにこうした権利が与えられているならば、われらへは尚更その権利が与えられているべきではないのですか。「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」(一コリ9:12)
 主はいいます、福音を宣べ伝える人たちは福音によって生活の資を得るように、と。が、わたしはこの権利を用いたことがありません。用いるぐらいなら、死んだ方がマシだ、と思うているからです。
 わたしの報酬、それは「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということ」(一コリ9:18)なのです。
 誰に対してもわたしは自由ですが、同時にすべての人の奴隷でもあります。ユダヤ人、律法に支配されている人、律法を持たない人、弱い人。かれらに対してはかれらのなかの人のようになって、かれらを得ようとしました。どうぞご承知置きを。福音のためならばわたしはどんなことでもします。わたしが福音と共にあずかる者となるために──。
 やがて朽ちる冠のため、日々肉体を鍛錬する競技者のようには、わたしはなりません。わたしは朽ちることなき冠のために節制するのです。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(一コリ9:27)

 バルナバは初期キリスト教会の福音宣教師で、回心したパウロをエルサレム教会に執り成して仲間の1人として認めさせるに尽力した人(使9:27-28)。初出は使4:36。レビ族のかれも他のキリスト者と同じく自分の畑を売り払うなどして、教会──信者の共有財産として提供した、という件であります。
 パウロ回心後はかれと宣教旅行を実施しましたが(パウロの第一回宣教旅行)、次の宣教旅行では随伴者のことで意見が一致せず、パウロと別れてマルコを伴いキプロス宣教へ赴いたのでした(使15:36-39)。キプロスはバルナバの出身地でした。以後、2人が再び相見えたかどうか、不明であります。

 本日の旧約聖書は一コリ9:9と申25:4。



 わたくしは今年5月に奈良を旅行しました。家族での奈良旅行はこれが2度目になるのですが、ふしぎと今回が<初めて>という感が拭えません。が、それについて考察を加えるのは他日の機としましょう。
 このたびの奈良行きでわたくしのいちばんの目的は秋篠寺でした(長谷寺参詣は純粋な意味で旅行とは申せないので、ここでは考えないことと致します)。奈良旅行の個人的クライマックスに秋篠寺を持ってきたのは、ここに在る伎芸天の像を拝観したい、という一念から。
 伎芸天の存在を知るに至ったきっかけは覚えていませんが、遠因は学生時代、日本美術史で読んだ佐和隆研『仏像 祈りの美』(平凡社カラー新書 1974)まで辿れるのではあるまいか。そこで伎芸天は斯くの如く記述されておる、「あらゆる芸に長じ、諸芸成就、福徳円満をつかさどる芸術、芸能の神である」(P142)と。
 自分のような者でも対象になるのなら、生涯一度でいいから拝んでみたいものだ、と願ってよやく実現した次第でありますが、5月の奈良旅行で自分たちの行動ルートからやや外れる秋篠寺を組みこんだのは、堀辰雄『大和路・信濃路』所収の「大和路」に秋篠寺訪問の折のことが記されているのに接したからでありました。堀は秋篠寺を訪れて、境内の秋草のなかに寝転がってこの寺の印象を認めた(新潮文庫 P105)。清冽な文章から立ちあがってくる光景に惹かれて、この寺に自分も行ってみたい、と強く欲した記憶があります。
 そうして奈良旅行最終日の午前、近鉄大和西大寺駅前からバスに乗って小雨に濡れた秋篠寺を訪れて、生命力に漲った緑の木立、苔群す庭を見つつ本堂の薄暗がりのなか静かにたたずむ伎芸天立像と対面し、ひっそりと充足の溜め息を洩らし、落涙をこらえてそれを見つめたのでした。この奈良旅行では中宮寺でも同様の経験をしました。大仰と揶揄されましょうけれど、そのときのわたくしはまさにそんな気分だったのです。誰に否められる筋合いもありません。それはさておき。
 旅行から帰ったあとは仏像の本に手が伸びるようになりました。でもなかなか伎芸天を取り挙げたものはありません。やや観光ルートから外れた場所に寺があるせいか、この仏像がイレギュラー的存在なのか、或いはそれ以外なのか、定かでありませんが、でも、自分の内に起こった感動が決して例外的なものでないことは、前述堀辰雄の文章を再読しても明らかでしたし、立原正秋の作品などでもそれは確認することができます。
 その立原正秋なのですが、20代後半に手を出してその作為的なまでの人工美と情緒過多で嫋々たる筆致にうんざりしてその後は古本屋で見附けても手を伸ばすことさえなかったのですが、5月の奈良旅行を契機に再び読んでみようか、と思うたのでした。たぶん、立原正秋に大和路、就中この秋篠寺を舞台にした上下巻の長編小説がある、と知ったからでしょうね。でもそれはなかなか見附からなかった。あっても上巻だけで、その上巻も表紙カバーが映画化されたときのスチール写真を使っていたり、しかも秋篠寺を舞台にするのは下巻であるらしいとあっては、まぁ、購入する気なぞ起きようはずもありませんな。
 が、この3連休の初日にわたくしは思いも掛けずこれを発見したのです。タワーレコードにアバドのシューベルトを買いに行った帰り、何気なしに寄った<ブ>の108円コーナーにて。『春の鐘』、新潮文庫。躊躇いなく摑んで、状態を確認した後、レジへ運んだのはいうまでもない。ちなみに立原には『心のふるさとをゆく』という本(角川文庫)があって、ここにも秋篠寺を訪ねたときのことが書かれている。偶然にもわたくし同様、小雨の日に訪うた様子。
 此度大和路を歩いたことは自ずと読書の幅を広げた結果になりました。そこに長谷寺がある以上、わたくしは残りの人生であと何回か奈良へ旅行することがあるでしょうが、そのすべてで秋篠寺を訪ねることは不可能だと思います。なんというても奈良は広い。見るべき寺社はたくさんあり、仏像も同じだけかそれ以上にあり、記紀万葉へ親しんだ者には、九州高千穂を除けば最大級の観光スポットである。それだけに秋篠寺再訪の比率は相対的に低くなり、毎日の生活の記憶が蓄積されてゆく一方でかの奈良旅行の思い出は鮮明さを失ってゆくのでしょう。それを少しでも延命させる方法の1つが読書であります。写真は想いを深め、折々の感慨を甦らせこそすれ、しかしながらそれだけで補完は果たされません。それについて書かれた本を読むことは自分の思い出と他者の把握した情景の必然にして微妙な差異を確認して、記憶のなかの光景をより鮮明にさせることでもあります。このようにして旅行の思い出というのは、時として補正されたり取り違えられたりすることもありますが、人のなかで生き続けるようになるのではないでしょうか。
 いまわたくしには再訪を切実に望む場所が、幾つかあります。この秋篠寺は、その1つ。かなうならば今度はゆっくりと、時間をかけて、わがままをいえば小雨のなかを、秋篠寺を訪うて伎芸天や他の像に対面していたいものであります。その日までわたくしは生きていましょう。◆

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