第2139日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第11章2/2:〈礼拝でのかぶり物〉、〈主の晩餐についての指示〉他with計5日も休んでしまったことの詫び状。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第11章2/2です。

 一コリ11:2-16〈礼拝でのかぶり物〉
 コリントの兄弟たちよ、あなた方がわたしを思い出し、わたしの伝えた教えを守ってくれているのはとても嬉しく、またあなた方の態度は立派と思います。そこで是非この機会に知っておいていただきたいのは、──
 すべての女の親分は男であり、男の親分はキリストであり、キリストの親分は神である、ということであります。
 男は誰しも祈るとき、預言するときなど、頭に被り物するならキリストを侮辱したことになります。男は神の似姿、神の栄光を映す者。ゆえ頭に被り物などすべきではないのです。
 一方女性は誰しも祈るとき、預言するときなど、頭に被り物しないなら男を侮辱したことになる。ということはつまり、キリストを侮辱したことにもなるわけです。被り物せず祈ったり預言したりして男を、キリストを侮辱したことは、女性の元来の被り物である長い髪の毛を剃り落としたことにも等しい。わたしは敢えていいたい、女性よ、被り物して祈ったりしたいならその髪の毛を切ってしまえ、と。髪を切ること、髪を剃り落とすことが恥ずかしいなら、被り物をするのです。
 女性は男の栄光を映す存在です。女性は男から出、女性は男のために造られた。アダムとエバの例を持ち出すまでもないでしょう。──主キリストには男なしに女性なく、女性なしに男はないのです。女性が男から出たように、男も女性から出、すべては神から出たからであります。
 どうぞ女性たちよ、自分たちで判断しなさい。あなた方が神に祈る際、頭になにも被らずにいるのが正しいことなのかどうか、を。「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。」(一コリ11:14-15)
 ──この件についてかりに異論ある者ありと雖も、斯様な習慣はわたしも教会も持っていないので、お相手することはできません。

 一コリ11:17-22〈主の晩餐についての指示〉
 仄聞するところでは、あなたがたの教会は良い結果より悪い結果の方を多く出しているようです。まあ、兄弟たちの間で分裂などしているようでは、リーダーを決めるに一悶着あったってふしぎではありませんけれどね。
 が、それでは皆が一堂に会して主の晩餐に与ることはできません。というのも各々が勝手に飲み食いしてしまい、たらふく腹に収めた者もあれば、空きっ腹を抱えるばかりの者だっているからです。
 いったいあなた方には家がないのか。或いは、神の教会を見くびり、貧しき人びとに恥をかかせたいのですか。
 あなた方へかけるべき言葉が見附かりません。他のことで誉めるべき事柄があったとしても、嗚呼、この点だけは誉めるわけにはいかないのです。

 一コリ11:23-26〈主の晩餐の制定〉
 かつて主イエスは12人の使徒と共に晩餐の席に着いたとき、感謝の祈りをささげたあとパンを裂いて、これはあなたたちのためのわが肉である、といい、食後に杯を取って、これはわが血によって立てられる新しい契約である、といいました。
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(一コリ11:26)

 一コリ11:27-34〈主の晩餐にあずかるには〉
 「(キリスト者として)ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。誰でも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」(一コリ11:27-28)
 「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることのないようにするための、主の懲らしめなのです。」(一コリ11:31-32)
 ──わが兄弟たちよ、食事のために集まるときは互いに待ち合わせなさい。空腹の人は家で食事しなさい。主の裁きを受けるために、のこのこ集まってくるなど、以ての外であります。
 その他の話題や事柄については、わたしがそちらへ行ったとき、じっくりと話し合うことにしましょう。

 自分の無理解、浅学を棚に上げるようですが、どの書物にも難所というものがあると思うのですが、さしずめ本章もその難所の1つというて良いのでないでしょうか。舞台裏を衒いなく明かすようで恐縮だが、三読四読してなお内容を把握しがたく、また咀嚼できかねる場合は、適度に言葉を換え、表現をアレンジしてなるたけ原意を崩さぬ範囲で意訳して本文を作ってゆく他ないと思うております。本章に限って(ん?)やや砕けた、フランクな調子となっているのは、斯様な判断に基づくわたくしの<逃げ>であります。
 ですが、これはなんでもそうだと思うのですが、モレスキンのノートに書いた第一稿を叩き台にしてMBAのワープロソフトを用いて推敲、諸兄の読む文章を練りあげてゆく/作りあげてゆく過程で、それまでは雲を摑むような内容でただ聖書本文を引き写していただけの状態から、ほんのちょっぴりではあっても視界の晴れたような心持ちになって、「なんとなくわかるな」という程度まで話題の中心に迫ることができた喜びは、時として他の何ものにも代え難いものがあります。まぁ、第一稿から推敲という思考の整理期間を経て決定稿ができあがるまでの間に、内容についての思考の発展や深化がすこしは見られるのかな、と……。
 事の序でに申しあげたいが、主の晩餐については新共同訳の小見出しに振り回されてはならない。すくなくとも、囚われないよう注意する必要はあると思います。一コリ11:17-34、本章の後半がそれに相当しますが、この部分については虚心にパウロの言葉に耳傾けよ、とわたくしは読者諸兄に促したい。というよりも、小見出しに限らずここは新共同訳に頼るよりは気分転換も兼ねてたとえばフランシスコ会訳の方が文意と内容は摑みやすいのではないか、と考えます。この17節に関して新共同訳にも優れた箇所ありと雖もそれは部分的なお話であって、或る意味重箱の隅をつつくようなお話です。全体を見通せない翻訳は、聖書であれば尚更ダメだと思います。
 話の流れで前半部分に於ける<かぶり物(被り物)>について。聖書本文にあたるとここは読書するのに紛らわしい箇所でもあるのですが、Headを意味する「頭(あたま)」とBossを意味する「頭(かしら)」という同じ語が一つの文章のなかに重複します。本稿では無用の混乱を避けるため、またプロバイダの性質上振り仮名が使えないことも手伝い、Headを意味する「頭(あたま)」はそのままに、Bossを意味する「頭(かしら)」は本稿では敢えて「親分」としてみました。代替語の選択に意図するところはまったくありません。ちょっと遊んでみたくなっただけです。
 では、その被り物について、以下に補記──。
 男性は頭に被り物をすることで神の似姿を損なうことになるため、礼拝時に被り物は禁止。
 女性の場合、ヴェールのような装飾品としての被り物と、自然の被り物と謳われる長い髪の毛とに分けられる。パウロはまず、礼拝のときはヴェールなど装飾品としての被り物を被って頭髪を隠せ、という。頭髪を包み隠すことは親分である男、延いては神への恭順を示すからだ。即ち男や神を侮蔑する気持ちはないということである。源実朝の歌ではありませんが、君に二心わがあらめやも、なのであります。なんだか日本の角隠しに似ていますね。
 その一方で女性が被り物なしで礼拝に臨むならば、いっそのこと頭髪も剃り落としてしまえ、なんとなれば被り物をしていないならば頭髪などあってもなくても同じなのだから。それが自然の被り物と謳われる長い髪の毛に対するパウロの主張であります。かれの過剰な発言にはすっかり馴れたつもりですが、さすがにこれはパウロの肩に手をかけて「おい、ちょっと待てよ。幾らなんでもそれはいい過ぎではないですかね」とツッコミを入れたくなるのであります。
 「主の晩餐」という表現はこのとき初めてパウロが用いた由。懐かしい気持ちで福音書の当該章を読んでみるのもいいかもしれません。



 インフルエンザっぽくておまけにノロウィルスっぽい、でも実際はただの風邪を引いてしまい、無念にも4日、加えて昨日は同僚の個別送別会のため新たに空白を設けてしまった。
 これまでなら無理をしてでも待ちくださっている読者諸兄を思うてその日のブログ原稿は仕上げていたのだけれど、今回ばかりはダメだったなぁ。体が弱くなったのか、否、意志が弱くなったのだ。むろん、これは当初の空白4日間のことであって、昨日については後ろめたい気持ちはなに一つ持ち合わせていない。
 怠惰を覚えた体は鞭打ってもその場限りしか無理を聞き入れず、為に斯様な空白期をむざむざと設ける口実になってしまった。いまや本ブログの目標は、聖書読書の無事なる完結ではなく、日々更新の唯一事を遵守することを誓い、日々怠りなく実行してゆくことなのかもしれない。
 1日1章毎日更新の看板を守ることができなくて、相済まぬ。でも、本ブログは決して終息しない。これだけは皆様に約束することができる。一緒に行こう、道の果ての開拓地へ。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。