第2141日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第13章:〈愛〉with聖夜に「愛」は語れない、そうして、佐々木邦『苦心の学友』を読んで、考えてみたこと。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第13章です。

 一コリ13:1-13〈愛〉
 わたしはあなた方へ最高の道をお教えしましょう。それは愛についてです。
 あなた方が人々や天使の異言を語っても、完全な信仰を持ち合わせていても、愛がなければ無意味です。
 あなた方がかりに預言する賜物を持ち、森羅万象に通暁していたとしても、愛がなければ無意味です。
 あなた方が全財産を貧者への施しに抛ち、また誉れのためわが身を死へ引き渡そうとしても、愛がなければ無意味です。
 人間が誇るものはいつか廃れ、滅びます。が、なかには滅びることなく残るものもあります。その1つが、愛です。
 「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(一コリ13:7-8)
 「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(一コリ13:13)

 本章は「愛の讃歌」として夙に知られ、古来愛読されてまいりました。就中引用した一コリ13:13は江湖に知られた部分でありまして、わたくしも古今の文学作品に於いて接した覚えのある箇所であります。比較的マイナーな作品ながら心に静かに残る映画『吉祥寺の朝比奈君』及びその原作小説でもライトモティーフのように使われていた一節でした。
 ここについては特になにも申しません。わたくしよりも連れ添う者ある読者諸兄の方が、ずっとこの言葉の真実なること、偽りなき言葉であることをご存知のはずですから。
 最後の一節が強力すぎて他を霞ませてしまうのは仕方ありませんが、正直なところ、わたくしにはパウロが己の理念とキリストへの想い、この2点のみを以て本章を書きあげたようには、思えないのであります。下司の勘繰りと揶揄されるかもしれませんが、パウロ自身がこの時期、他人との間に<愛>にまつわる体験をしてその折の諸々が本章に反映したようにも思うのです。当時のパウロには心に住まう、或いは傍らに侍るような異性があったのかもしれませんね(同性だったらチト嫌ですが)。
 そんな風に思い思いしながら読んでゆくと、わたくしは一コリ13:10-12の件りに違和感を覚えるのです。<愛>という話題に絡めて、いったいなにを伝えようとしてこの文章を書いたのか、ようわからぬのであります。まあ、筆が走った、というのが真相ならばそれで構わんのですが……。唯本章を読む毎に件の箇所は、<愛>についてパウロが語るときわれらが特に注目して理解/解釈の鍵としなくてはならない、手掛かりのような言葉に思えてならないのであります。
 最後に、その一コリ13:10-12を引いておきます、──
 「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 ……よりによって愛を讃えて留まるところなき第13章を、愛と無縁で永劫にそれを断ったアルベリヒたるわたくしが読むことの悪しき巡り合わせ、そうしてこの虚しさよっ!



 聖夜に「愛」なんて語らない。語る資格なき者に語るべきことなぞ何一つないのだ。第13章は傷口にすりこめられた塩──。
 昨日佐々木邦を読み始めたと書いたのに 実は今日は佐々木邦を読み終えたという報告をしなくてはならぬ。むろん、『苦心の学友』についての話である。
 自分が佐々木邦を読むのは本書が初めてであるけれど、これを少年時代に読むことのできた戦前の子供らが羨ましく思う。時代背景など思えば単純にそんなこといえないけれど、すくなくとも佐々木邦の小説をリアルタイムで読めた幸福に関しては、すこぶる羨望を禁じ得ないのだ。亡き父などもこの作家の作物を子供の頃読んだのだろうか、いまとなっては直接訊くこともかなわないけれど、あの世に行っての話のタネが1つできたことにちょっぴり喜びを感じている。
 佐々木邦は戦前の日本には珍しい、随一のユーモア作家だった。とかく暗いイメージで捉えてしまいがちな戦前の生活だが、かえってそんな目で過去を見ているから佐々木邦の小説の明るさ、朗らかさ、正直さに心打たれ、この作家を握玩するようになるのかもしれない。渡部昇一が語り、荒俣宏が記したように、戦前日本の生活はあの時代なりに明朗で屈託のないものだったようだ。佐々木邦の小説はそんな時代の空気を作中に封じこめた、あの時代の証人というてよいやもしれぬ。
 なにしろ読み終えたばかりの小説であるから、感想を書くだけの材料はまだ整理できていない状況だ。たとえば「コリントの信徒への手紙 一」が済んだあとで感想文などお披露目するかもしれない。が、それは希望であって決定ではなく、これまでを顧みれば感想文は諸兄の目に触れない可能性だってじゅうぶんにある。ただ、今日から(昨日ですか)『ガラマサどん』を読み始め、その次には『凡人伝』が控えている。その間には昨夏に出版された松井和男著『朗らかに笑え』(講談社)という佐々木邦の伝記にも目を通しているだろうから、それらを基にして一編のエッセイを認めることは企んでおる。
 もっともっと読んでみたい。講談社は文芸文庫でよいから、佐々木邦の著作をどんどん復刊してくれぬものか。安倍一強政治が日本を黒雲で覆わんとしている今日こそ、国民は佐々木邦の小説に触れてともすれば暗くなりがちな心に自ら灯を点すことが必要なのではないか、と四角四面なことまで考えてしまうのは、わたくしや下手な物書きの定番な文章の〆方といえよう。でもね、いまのような時代にはウッドハウスや源氏鶏太、そうして佐々木邦のようなユーモア小説が必要ですよ。ホント、そう思います。
 ──それにしても、聖夜に「愛」を目の当たりにするのは、なかなか辛いものがありますナ。◆

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