第2142日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第14章:〈異言と預言〉&〈教会の秩序〉with初めて観るBlu-rayは何にしようか?〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第14章です。

 一コリ14:1-25〈異言と預言〉
 異言は神に向かって語られ、預言は人に向かって語られます。ゆえに預言は人を造り、励まし、慰めるのです。(かつて世に現れた預言者たちを見よ。)預言する者は教会を造りあげるが、そうするには異言を語る者よりも預言する者の方がふさわしいのです。
 たとえばわたしがあなた方の許へ行って異言を語ったとします。が、あなた方にはなにをいっているのか理解できないでしょう。異言を解釈するには霊的な賜物が必要です。異言を語る者、聞く者にそれがなければ、互いに外国人を前にしているに等しい。その霊的賜物を熱心に求めるならば、祈りなさい。異言を解釈するために、祈りなさい。
 わたしパウロが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っていることになるのですが、理性は実を結ばない。では、どうしたらいいだろう。──霊で祈り、理性で祈ればよいのです。両方で祈ればいいのです。霊と理性で讃美すればよいのです。さもないと、かりにあなたが霊で讃美の祈りを唱えたとしても、教会に馴染み薄い人はあなた方の神への感謝の言葉を聞いても、「アーメン」と返すことはありません。
 わたしは自分が誰よりも多くの異言を語れることに感謝します。が、他人を教えるに異言で1万の言葉を用いるよりも、理性で5つの言葉を語る方を選びます。
 預言者イザヤの言葉にもあるように、異言は信じていない者のための徴であります。教会に馴染み薄い人が教会に来て、皆が異言を語る場面に遭遇したら、きっと左巻きの集団に思われるがオチでしょう。が、教会に馴染み薄い人が教会に来て、皆から非を悟らされ、罪を指摘され、心のなかに隠していたことが明るみに曝されたならば、結局は神の前にひれ伏し、皆の内に神がいることを口にして認めることでしょう。

 一コリ14:26-40〈教会の秩序〉
 さて、それではどうしたらよいでしょう。
 異言を語る場合、2人か3人が順番に語り、1人に解釈させる。解釈する者なければ教会では黙っていて、自分自身と神について語りなさい。
 預言する場合は、2人か3人が語って残りの者はそれを検討しなさい。坐っている人に啓示が与えられたら、それまで語っていた者は口を閉じなさい。皆が共に学び、励まされるように、1人1人が預言できるようになりなさい。「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(一コリ14:33)
 婦人は教会では黙っていなさい。婦人には教会で発言する権利はおろか資格もありません。律法にもあるように、婦人は従うべき存在です。なにかについて知りたくば夫に訊きなさい。
 ──自分が預言する者だとか霊の人であるとか思うている人あらば、わたしがここに書いたことはいずれも主の命令である、と認めなさい。認めない者は自身も認められないでしょう。
 「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(一コリ14:39-40)

 異言を語る者の内にはそのための霊的賜物があり、本章では明言されていないけれど、預言する者の内にはそのための霊的賜物が備わっている。旧約聖書に登場した預言者たちは誰も彼もが神の召命を受けて、任務にあたった。その召命がパウロのいう(祈りによって)霊的賜物を受ける、ということなのかな、と思います。
 ただ、以前に霊的賜物についての章(第12章)を読んだときにふしぎに思い、また今日もふしぎに思うたのでありますが、この霊的賜物なる代物、1人につき1つだけしか与えられないのでしょうか? 一コリ12:8-10に拠れば、同じ“霊”によって知識や信仰、異言や預言を語るなどの力が与えられる由。“霊”は望むままにその力を1人1人に分け与えてくれる、といいます(同12)。
 これを本章に重ね合わせて考えれば、1人が預言する力も異言を語る力も、霊的賜物として授かっても一向ふしぎではないように思うのであります。一方通行な能力が双方向へ向けた能力として機能すれば、これは或る意味で鬼に金棒であります。まぁ、バイリンガルの誕生ですね。
 が、それができるのは限られた──選ばれた存在だけなのかもしれません。モーセやダビデやイエスのような。裏返していえば、1人の内に霊的賜物が2つも3つも入りこむのは、どれだけ危険なことかを示しているようにも読めます。「天は二物を与えず」といいますが、案外とこの言葉の背景には、ここでパウロが語っているようなことがあるかもしれませんね。

 本日の旧約聖書は一コリ14:21とイザ28:11-12。ただ「律法には」とパウロは書いておりますので、機を改めて該当箇所を探してみようと思います。



 いよいよわたくしの部屋にもBlu-rayが来たのである、否、その途中である。外付けドライブは注文してさっそく届いたのだが、再生ソフトの代金の振込が遅くなってしまったので、途中といわざるを得なかったのだ。
 環境が整うたとなれば、最初に鑑賞する(購入する)ソフトはなににしようか、という話になるのだが、いろいろ考えても結論が出ぬ。この前もタワーレコードに別件で出掛けた際、映像ソフトの棚を一通り物色してみたのだが、これが欲しい、と強く思わせられる作品には出会えなかった。DVDで所有する作品を買い直すのは、この段階ですべきことではないように思う……。
 数週間前にSKE48についての未定稿を認めたのだが、お披露目するだけのレヴェルでは未だないためお蔵入り状態となっている。その原稿を書きながら、これを仕上げるためには過去にリリースされた映像作品に今一度目を通しておく必要があるな、と痛感したのが一因である。就中ドキュメンタリー『アイドルの涙』とコンサート映像ソフトの計4作は。──幸いと内2作はBlu-rayがあるので、これを契機と気を大きくし、大義名分を得た気分で購入の手筈を整えた。
 が……ラキシスと名附けたわがiMacで初めて観るBlu-rayにSKE48は不似合いだ、という気持ちもどこかにある。やっぱり映画かクラシックだよなぁ、という思いを伴って。となれば、『ブレードランナー』或いは(及び?)《ニーベルングの指環》全曲か。が、《指環》の全曲Blu-ray(可能ならば日本語字幕附き)で満足できる、わたくしの欲求を満たしてくれるような映像は、残念ながらないらしい。嗚呼! セカンドチョイスとして、アバドのベートーヴェン交響曲全集や以前映画館で観たティーレマンの《ばらの騎士》あたりにするか──でも、それもナニカガ違フ気ガスルヨ。『ブレードランナー』とSKE48を買って、映画を先に観れば面目は立つかなぁ……。sigh.
 んんん、きっとこれが<迷っているうちが花>というものなのでしょうね。◆

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