第2143日目 〈コリントの信徒への手紙・一  第15章:〈キリストの復活〉、〈死者の復活〉&〈復活の体〉withBlu-ray初視聴記の執筆とお披露目、順延となる。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第15章です。

 一コリ15:1-11〈キリストの復活〉
 兄弟たちよ、わたしがどんな言葉で福音を告げ知らせたか、覚えていますか。わたしが伝えた福音とは即ち、キリストがわれらの罪を贖うために死んだこと、葬られて3日後に復活したこと、ケファことペトロの前に現れ12使徒の前に現れたことでありました。その後多くの人の前に現れ、バルナバのような使徒たちの前に現れ、そうして最後にわたしの前に現れたのです。
 「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」(一コリ15:9)
 いまのわたしがあるのは神の恵みのお陰。わたしは自分に与えられた神の恵みを無駄にすることなく、他の人たちよりも多く働きました。が、実のところ働いていたのはわたしというよりも神の恵みである、という方が正解だったしょう。

 一コリ15:12-34〈死者の復活〉
 キリストは死者のなかから復活しました。そう宣べ伝えられているのに、あなた方のなかにそれを信じない者がいるのはどうしたことでしょう。
 死者の復活なくしてキリストの復活はない。キリストが復活しなかったなら、われらの宣教は無駄でしかなく、あなた方の信仰も無駄になります。序でにいえば、われらは皆、神に偽りの証言を行いました。復活してもいない人を指して、復活した、と偽りの証言を申し立てたのだから。
 改めていいます。死者の復活なくしてキリストの復活なし。キリストが復活していないなら、あなた方の信仰は虚しく、いまなお罪のなかに生きていることになります。キリストを信じて眠りに就いた人々は復活することなく滅びます。そうしてキリストの復活を信じて生きるわれらは全地で最も惨めな者であります。──これもすべてキリストは人々の罪を贖うため十字架に掛かって死んだのだ、という希望が失われたためなのです。
 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(一コリ15:20-22)
 ですが、来るのにも順番があります。まずはキリスト、次いでキリストが復活したときにキリストへ属していた者、最後に世の終わりが来る。世の終わりが訪れたとき、キリストはあらゆる権威、あらゆる支配、あらゆる勢力を滅ぼして、すべての敵を自分の足下に置き、最後に死をも滅ぼしてから、父である神に国を引き渡す。すべてが御子の下に服従したとき、それらと共に御子自身も、すべてを自分に服従させてくれた方即ち神へ服従する。神が<すべてに於いてすべて>となるのです。
 そう考えると、ですよ。われらが洗礼を受けるのはなんのためなのでしょう。死からの復活がなければ洗礼も無意味ではありませんか。もし死者が復活しないとしたら、預言者イザヤの書のなかにあるように、飲めや食べろやどうで明日は死ぬ身なのだ、ということになりましょう。メナンドロスというギリシアの作家は《タイス》のなかで、悪しき交際は良き習慣を台無しにする、というております。さあ、正気になって身を正し、福音を信じるのです。
 兄弟たちよ、罪を犯すなかれ。
 わたしはあなた方を恥じ入らせるために、こういっているのです。

 一コリ15:35-58〈復活の体〉
 あなた方の誰かから、こんな質問が出そうです。曰く、どんな風に死者は復活するのか、どんな体で来るのか、と。なんとも愚かしい質問だと思います。
 あなたが蒔くものは死ななくては命を得ないものです。ただの種粒でしかありません。それに体を与えるのは、神です。神が御心のままに、1つ1つへ体を与えるのですよ。その体にも実は地上の体と天上の体があり、それぞれに輝きが異なっています。
 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(一コリ15:42-44)
 自然の命の体、つまり最初の人は地に属し、霊の体、つまり第二の人は天に属す。
 土からできたすべての者は土から出たその人に等しく、姿も似ている。天に属するすべての者は天に属するその人に等しく、やはり姿も似ている。
 兄弟たちよ、伝えておこう。肉と血は神の国を受け継ぐことができず、朽ちる者は朽ちることなきものを受け継ぐことはできないのだ、と。
 「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(一コリ15:51-53)
 そのとき、預言者イザヤとホセアの言葉が成就するのです。即ちイザヤの言葉として「死は勝利にのみ込まれた」、ホセアの言葉として「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか/死よ、おまえの棘はどこにあるのか」
 死の棘は罪、罪の力は律法です。主イエスによってわれらに勝利を賜った神に感謝しよう。
 兄弟たちよ、なににも動じることなく、しっかりと立ちなさい。そうしていつでも主の業に励むようになさい。主に結ばれている限り、自分たちの苦労がゆめ無駄にはならないことを、あなた方はじゅうぶんご存知のはずです。

 復活はパウロの神学の核となる思想です。それもあって第15章は筆に勢いがあり、論旨は明確。章としては本書最長ながらその実最も読みやすくなっているのは、逆にいえばパウロが復活思想をじゅうぶんに育て上げており、それを既に他の人に向かって説いていた経験のあることを思わせます。わたくしもそれに倣って平明明快な文章を心掛けたつもりですが、読者諸兄はどのように思われるでしょうか。
 ──死者の復活なくしてキリストの復活なし。とても力強く希望にあふれた言葉で、わたくしも書いていて気分が高揚したのでありますが、この文言、順番が逆なのでは、と疑問を抱く方もありそうです。キリストが復活するから他の死者も復活するんだろ、ならば、キリストの復活なくして死者の復活なしというべきではないのか、と。
 確かにその方がわかりやすいですね。が、実際はそうではなく、ここでパウロがいうておるのは、死者の復活という希望、福音がキリストの復活によってもたらされるのだ、ということと、キリスト自らが復活することで福音が本当であることを知らしめるのだ、ということなのであります(すくなくともわたくしはそう考える者であります)。為に<死者の復活なくしてキリストの復活はない>とパウロは主張してやまぬのです。
 ちょっとわかりにくい書き方になってしまったけれど、〈復活の体〉で触れた<土からできたその人/最初の人/自然の命の体>はアダムを指し、<天に属するその人/第二の人/霊の人>は復活後のイエスを示しています。
 かつてイエスは公生涯に於いて、信じる者は救われる、と説きました。これは脈々と信徒のなかに受け継がれて、パウロにとっては復活思想の最大級のバックボーンとなったのでありました。これがパウロの励ましとなり、思想の育つ養分となり、また拠り所となったというてよいでしょう。
 なお、ギリシアの作家メナンドロス(前342-291年)の作品『タイス』からの一節をパウロは引用しますが、日本流にこれをいい直せば「朱に交われば赤くなる」となります。

 本日の旧約聖書は一コリ15:21-22と創3:19、一コリ15:27と詩8:7、一コリ15:32とイザ22:13、一コリ15:45と創2:7、一コリ15:54とイザ25:8、一コリ15:55とホセ13:14。



 Amazonのカスタマーレビュー、鵜呑みにするべからず。購入したBlu-rayの外付けドライブはやはりWindowsでしか動作しないことが判明、さっそく返品の手続きを取り、新たにちゃんとMac用と謳われているドライブを購入した。
 今日(昨日ですか)到着するはずなのに、待てども待てども宅配業者のトラックはやって来ない。確認の連絡を取ろうとして注文時のメールを見てみたら、あれ、今日はまだ土曜日じゃん、配送は明日日曜日じゃん、とクールに苦笑いし、片手に持ったiPhoneを置いた。わたくしは配送希望日を1日、間違えてしまっていたのだ。そりゃあ届くはずがないよね。届いたら逆に可笑しいわい。
 というわけで、わがBlu-rayの初視聴記はいましばらくお披露目されない事実が浮上した。『ブレードランナー』のソフトを購入したのだけれど、未だ松井玲奈の卒業公演コンサートの映像を明日明後日にでも購入してしまいたい欲望からは解放されないでいる。いやはやなんとも。◆

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