第2168日目 〈「コリントの信徒への手紙 二」前夜〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 「コリントの信徒への手紙 二」は57-58年頃、マケドニア州にて書かれたパウロ書簡の一つであります。かれの随伴者の1人、ルカはその著「使徒言行録」でパウロが第3回宣教旅行の終盤、マケドニア州入りしたことを伝えています(使20:14)。これがちょうど57-58年頃の出来事なのでした。
 前回の書簡の数年後に、同じ教会宛ての手紙を書いたのはどうしてなのでしょう。一旦悪習に染まったコリント教会は、パウロのからの手紙を以てしても完全に立ち帰ることはできなかったのか──それはおそらく「否」であります。手紙へ込められたパウロの神学と信念、熱意は、悪習に耽る(一部の)コリントの信徒たちの心を動かし、またそれを運んだパウロの優秀な協力者テトスも教会の正常化に一役買ったものと思われます。
 では、「二コリ」が書かれねばならなかった理由は? 「二コリ」に於けるパウロの文章から判断するに、どうやら「一コリ」以後のコリント教会にはパウロを否定する輩/一派が誕生したようであります。これが元からいた信徒であったのか、外から流れてきた者であったのかは不明です。いずれにせよ、パウロの主張や教え、神学に拒絶反応を示し、使徒としてのパウロの資格や能力に疑を呈すばかりか、その容貌にまで反パウロ派の舌鋒は及んだ様子。こうした連衆の批判に答えるパウロの心痛は、果たして如何ばかりであったでしょうか。が、それは一方でパウロの信仰と情熱をいや増すことになり、かれを支えたはずであります。自らの思想が精錬されてゆくのを、きっとかれは実感しつつ、ひたすら福音のために奉公したのでしょう。大きな反対に遭ってこそ人間は逞しくなってゆきます。われらはその例を、他ならぬパウロに見るのであります。
 なお、パウロはコリント教会宛に幾通かの手紙を書き送っております。実際のところ、それは何通であったのか、定かでありませんけれど、4通から5通は存在したことであろう、とされております。それを列記すると以下のようであります、──
 1;一コリ5:9「わたしは以前手紙で、みだらな者とは交際してはいけないと書きましたが」云々
 2;コリントの信徒への手紙・一
 3;二コリ2:4「悩みと憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」
 4;二コリ7:8-9「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても」云々
 5;コリントの信徒への手紙・二
 6;二コリ6:14-7:1(4まで?)を含む別書簡
 内、1と3と4は今日、既に失われております。6も、別書簡の存在は確かに疑問ではありますが、実在したとすれば、挙げた箇所以外の部分は散逸したことでありましょう。また3と4は同一書簡を指すとも考えられております。
 従来根強くいわれてきたのは、「二コリ」は複数の手紙を編集した成立した、という考えでした。これについてわたくしが語る資格は能力共々ありませんので、自身の判断は保留させていただきますが、読書してゆく過程で自分の意見が形作られてゆくかもしれません。そのときは改めてお話ししたく思います。ただ、これから「二コリ」を読んでゆくなかで統一感を欠くように思えたり、まとまりがないように感じたり、内容が中途半端であったりいきなり話題が変わったりしたように思えたら、「二コリ」の成立について昔からいわれてきたこの複数書簡の編集説を思い出しても良いかもしれませんね。
 それでは明日から1日1章の原則で、「コリントの信徒への手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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