第2169日目 〈コリントの信徒への手紙・二第1章&第2章:〈挨拶〉、〈コリント訪問の延期〉他with「趣味:iTunesに音楽を取り込むこと」と履歴書に書いてもいいかも。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第1章と第2章です。

 二コリ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロと兄弟テモテから、コリント教会とアカイア州の聖なる者たちへ。父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和が与えられんことを祈って。

 二コリ1:3-11〈苦難と感謝〉
 あらゆる苦難に際して神が与えてくれる慰め。これあるゆえに、われらは、あらゆる苦難のなかにいる人々へ慰めを与えられるのです。われらが受ける慰めはキリストによって満ちあふれたものだからです。
 われらが悩み、苦しむとき、それはあなた方の慰めとなり、救いとなる。われらが慰められるときはあなた方も慰められ、あなた方はわれらの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる。
 「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(二コリ1:7)
 ──かつてわたしはアジア州で筆舌に尽くし難い苦難に遭いました。あなた方にはこれについて是非知ってほしい。このときの経験から、自分自身を恃むのではなく、死者を復活させてくれる神を頼りとするようになりました。これまでも神はわれらを死から救ってくれたし、今後も救ってくれることでしょう。そう希望しています。わたしは神に希望をかけています。
 あなた方も神に祈るよう奨めます。そうすればきっと、多くの人のお陰でわれらへ与えられた慰めについて、多くの人々がわれらへ感謝をささげてくれることでしょう。

 二コリ1:12-2:4〈コリント訪問の延期〉
 われらは就中あなた方に対して、人間の知恵ではなく、神から受けた純真と誠実に基づきその恵みの下に行動してきました。これは良心も証しするところであります。主イエスの来る日、あなた方がわれらの誇りとなり、われらがあなた方の誇りとなることを知っていただきたい。
 斯様な確信に支えられて、わたしはあなた方の許を訪ねようとしました。コリントからマケドニアへ行き、戻ってきたらばコリントからユダヤの地へと、わたしを送り出してほしかったのです。いったいこの計画は軽率だったでしょうか。それともわたしが計画するのは人間的な行いによるもので──つまりそこに福音の宣教とか神や主の御旨の働きなどはまるでなく──、肯定の言葉がそのまま否定の言葉となるような類の行いだったのでしょうか。
 否。はっきり申しあげます。あなた方に対する肯定の言葉、「はい」「然り」は同時に否定の言葉「いいえ」「否」を意味するものではないのです。わたしとシラスとテモテがあなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、肯定の言葉と否定の言葉を同時に語って使い分けるような二枚舌の人ではありませんでした。主イエスに限っていえば、肯定の言葉のみが実現した。為にわれらはこの方を讃える「アーメン」という言葉を唱えます。
 われらとあなた方を固くキリストへ結び付けたのは、神であります。そうして、われらへ油を注いでくれたのも神なのです。その証拠として、神はわれらに“霊”を与えてくれました……。
 ──神を証人とし、命にかけて誓います。わたしが未だコリントへ行かないでいるのは、あなたを想うがこそのことなのです。あなた方は信仰に基づいてしっかりと立っている。わたしはその信仰を支配するつもりはありません。わたしがコリントへ行くことで、あなた方を悲しませるようなことはしない。わたしがコリントへ行くことで、本来ならそれを喜んでくれるはずの人々から却って悲しまれたくはないのです。わたしの喜びはあなた方全員の喜びでもある。わたしはそう確信しています。
 「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(二コリ2:4)

 二コリ2:5-11〈違反者を赦す〉
 もしあなた方のなかに悲しみの原因を作った人がいれば、その人はわたしではなく、あなた方全体を悲しませたのです。その人については、たくさんの者から受けた罰だけでじゅうぶんです。
 「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(二コリ2:7-8)
 以前に書いた手紙でわたしは、万事に於いてあなた方が従順であるか、試しました。
 あなた方が赦す相手をわたしも赦します。わたしが赦したとすれば、キリストの前であなた方のために赦したことになります。それは、サタンの誘惑に心迷わされないため。わたしはサタンの手法を知っているのです。

 二コリ2:12-17〈パウロの不安と安心〉
 わたしは小アジアのミシア州トロアスへ行きました。そこはイエス・キリストの福音のための門が開かれていました。が、そこで落ち合うはずの兄弟テトスには会えませんでした。不安な心を抱えたまま、わたしはそこを発って海を渡り、対岸のマケドニア州へ赴いたのでありました。
 神に感謝。神はわれらを、主イエス・キリストの勝利の行進に連ならせてくれます。われらを通じて全地隈無くキリストを知るてふ知識の香りを漂わせてくれる。われらはキリストによってささげられる、良い香りです。救いの道を歩む者にも、滅びの道を辿る者にも。それは、滅びる者には死の香りとなり、救われる者には命の香りとなるのです。
 「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(二コリ2:17)

 パウロのコリント訪問の希望は既に一コリ16:6に出ておりました。二コリ1:23-2:1で訪問延期を報告するのは、それを承けてのことでありましょう。
 二コリ1:8でパウロはアジア州で自らの受けた大きな迫害について触れています。具体的なところは記さず、耐え難い程の圧迫を受けたこと、死の宣告を受けたような気分だったこと、それのみ述べるのですが、果たして「使徒言行録」はなにか参考になる記事を載せているでしょうか。
 実はこれに触れる註釈は聖書によって、というよりも担当者によって異なってしまうのですが、どの出来事を指すのかは概ね一致している様子であります。
 たとえばフランシスコ会訳では使9:23-40(ex;一コリ15:32)とあり、新共同訳新約聖書スタディ版では使20:17-19を指す、とある。前者は回心直後のサウロをユダヤ人が殺害しようと企んでいる場面ですが、第40節まで含む話ではありません。参考として挙げられる一コリ15:32に従えば第3回宣教旅行の途次、エフェソでの、アルテミス神殿の騒動を指すことになります。おそらくフランシスコ会訳の註釈は「使9」ではなく「使19」の誤植でありましょう。
 一方、スタディ版に従うと、第3回宣教旅行の終わり方、エフェソの長老たちを前に今回の旅行で遭遇したアジア州での困難を語るとなる。おそらくここも主眼とするのはエフェソのアルテミス神殿での一件でありましょうから、両者は同じ出来事を憶測する結果となる。
 「使徒言行録」はアジア州での、死を覚悟させるような大きな騒動は他に伝えませんから、やはり本書簡でパウロがいうのは、エフェソのアルテミス神殿での一件と捉えてよさそうです。もっとも、書かれていない事柄がないとは限りませんので、あくまでこれは「であろう」の域に留まり、「そうであるのに違いない」とは断言できないことであります。
 二コリ2:6には「その人には、多数の者から受けたあの罰だけで十分です」とある。これはパウロの反対者がパウロを糾弾したとき、コリントの信徒が公の場で、公衆の面前で、相手に「否」の言葉を突きつけ、非難したことをいうのであります。
 わたくしが「コリントの信徒への手紙 二」でいちばん好きな言葉が、上記〈違反者を赦す〉のなかにあります。本文中で引用もした言葉ですが、罪を犯した者へ手を差し伸べて孤独にしてはならない、相手を愛しなさい、とパウロはいう。これなのです、すべての弱き人に必要な言葉は。なんと涙があふれそうになる、あたたかな言葉でありますことよ。



 iPhone6sPlusの容量が既に50GBを切っています──128GBのモデルなのですけれどね。容量をいちばん食っているのは、音楽でした。iTunesから購入したものはほんの少しで、他は架蔵のCDと、県立図書館や友人知人、TSUTAYAで借りてきたCDが専ら。
 ジャンルは……訊かないで。百花繚乱といえば聞こえはいいが、相当に雑食の傾向を呈している。なんというてもは<バッハからPerfumeまで>(敢えてSKE48とはいわない)を標榜する自分である、ルネサンス音楽からロック、J-Popまで揃ってしまっています。
 最近になって再びヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハを聴き返したいな、と思う一方でビートルズのアルバムをリリース順に聴き始め、これまで聴いてきたのとは違う演奏家でモーツァルトのオーケストラ曲を系統立てて聴く、という道楽に目覚めてしまうたので、もう拍車が止まらない状態であります。
 もはや、ケ・セラ・セラ、と諦念の微笑を湛えて「趣味:iTunesに音楽を取り込むこと」を究めるしか他になさそうだな……。
 後日、カール・ベーム=ベルリン・フィルによるモーツァルト後期6大交響曲にまつわるお話をこのエッセイ部分でさせていただく予定だが、それもiPhone6sPlusに取り込もうという思い付きに端を発している。進歩の兆しのまったくないエッセイであるが、こちらは相当面白がって書いているので、なにとぞご笑読いただければ幸甚であります。◆

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