第2171日目 〈コリントの信徒への手紙・二第4章&第5章1/2:〈土の器に納めた宝〉&〈信仰に生きる〉withこれからしばらく、更新時間を変更させていただきます。〉 [コリントの信徒への手紙・二]
コリントの信徒への手紙・二第4章と第5章1/2です。
二コリ4:1-15〈土の器に納めた宝〉
われらは新しい契約の奉仕者の務めを委ねられている、神からの憐れみを受けた者として。ゆえに落胆はしません。神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることで、われらは神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねるのです。
われらの福音に覆いがかかっているとすれば、滅びの道を辿る者に対してのこと。神は自らの言葉を聞かず信じず、畏れず敬わぬ者の心の目をくらまし、キリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。闇から光を輝き出させた神は、救いの道を歩むわれらの心を照らし、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくれました。
ところで、われらはこのような賜物を土の器に納めております。神の栄光が自ずと外側にあふれ出るように、です。それがわれらのものではなく、神からのものであることがわかるようにであります。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(二コリ4:8-9)
われらはいつもイエスの死を体に纏うています──イエスの命がこの体へ現れるために。
生ある間、絶えずわれらはイエスゆえに死に曝されている──死して朽ちるこの身にイエスの命が現れるために。
斯様にしてわれらの内には死が働き、あなた方の内には命が働いていることになります。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(二コリ4:14-15)
二コリ4:16-5:10〈信仰に生きる〉
われらの「外なる人」は衰えてゆけども、「内なる人」は日に日に新たにされてゆきます。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(二コリ4:17)──われらは目に見えないものへ目を注ぎます、見えないものは永遠に存続するからです。
われらの地上の棲み家である幕屋が滅びても、われらは知っています、神によって天に永遠の住処が用意されていることを。われらが地上の幕屋に在って日々悶え苦しむのは、天に用意された永遠の住処を上に着たいからに他なりません。われらが地上の幕屋に棲み、重荷を背負うて呻いているのは、なにも地上の棲み家を脱ぎ捨てたいからではなく、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために」(二コリ5:4)天から与えられる住処を着たいからなのです。われらは神によって、そうするに相応しい者とされました。その保証として、神はわれらに“霊”を与えてくれました……。
体を棲み家としている限り主からは離れている、と、われらは知っています。目に見えるものに拠らず、信仰に拠って歩んでいるからです。そうして体を離れて、主の許に住むことを希望しています。為にわれらは、体を棲み家としているにしても、体を離れているにしても、主に喜ばれるような存在でありたいのです。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(二コリ5:10)
引用もした二コリ4:8-9「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」が、本日読む章の窮極的一言、まとめの一言であるように思えます。
それを補うのが、やはりこちらも引用した二コリ4:17「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」であります。
これらが相互に働きかけて、パウロが本章にて拮抗した文章を用いて説く教えの結論的役割を担うておるのだ、とわたくしは考えます。手抜きではなく、本章の原稿をPagesで入力するにあたって次第に斯く思うようになったのであります。
お気付きの方もあろうかと思うが、これから数日の間、本ブログの更新時間を毎日午前2時から「当日中」ということで変更させていただく。基本的には日付の変わる直前となることが多かろうけれど、当方の体調もなかなか元に戻らず相当きつい状態が続いているので、なにとぞご理解を賜りたい。
むろん、毎日更新という原則は崩れない。「コリントの信徒への手紙 二」の読書と原稿執筆は既に半分を消化し、あと5日程で読了する。順調な読書ペースだ。予定通り今月中に終わらせるには、1日2回更新せねばならぬ日が1度だけ生じるけれど、特に問題あるまいと思う。
偶に音楽から離れたことをエッセイに書こうと思うたら、このような本ブログにまつわる自己弁護めいた内容になってしまった。芸のないことだとは自分でも呆れている。丸頭の少年に倣って、わたくしも溜め息交じりに呟こう、good grief、と。◆
二コリ4:1-15〈土の器に納めた宝〉
われらは新しい契約の奉仕者の務めを委ねられている、神からの憐れみを受けた者として。ゆえに落胆はしません。神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることで、われらは神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねるのです。
われらの福音に覆いがかかっているとすれば、滅びの道を辿る者に対してのこと。神は自らの言葉を聞かず信じず、畏れず敬わぬ者の心の目をくらまし、キリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。闇から光を輝き出させた神は、救いの道を歩むわれらの心を照らし、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくれました。
ところで、われらはこのような賜物を土の器に納めております。神の栄光が自ずと外側にあふれ出るように、です。それがわれらのものではなく、神からのものであることがわかるようにであります。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(二コリ4:8-9)
われらはいつもイエスの死を体に纏うています──イエスの命がこの体へ現れるために。
生ある間、絶えずわれらはイエスゆえに死に曝されている──死して朽ちるこの身にイエスの命が現れるために。
斯様にしてわれらの内には死が働き、あなた方の内には命が働いていることになります。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(二コリ4:14-15)
二コリ4:16-5:10〈信仰に生きる〉
われらの「外なる人」は衰えてゆけども、「内なる人」は日に日に新たにされてゆきます。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(二コリ4:17)──われらは目に見えないものへ目を注ぎます、見えないものは永遠に存続するからです。
われらの地上の棲み家である幕屋が滅びても、われらは知っています、神によって天に永遠の住処が用意されていることを。われらが地上の幕屋に在って日々悶え苦しむのは、天に用意された永遠の住処を上に着たいからに他なりません。われらが地上の幕屋に棲み、重荷を背負うて呻いているのは、なにも地上の棲み家を脱ぎ捨てたいからではなく、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために」(二コリ5:4)天から与えられる住処を着たいからなのです。われらは神によって、そうするに相応しい者とされました。その保証として、神はわれらに“霊”を与えてくれました……。
体を棲み家としている限り主からは離れている、と、われらは知っています。目に見えるものに拠らず、信仰に拠って歩んでいるからです。そうして体を離れて、主の許に住むことを希望しています。為にわれらは、体を棲み家としているにしても、体を離れているにしても、主に喜ばれるような存在でありたいのです。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(二コリ5:10)
引用もした二コリ4:8-9「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」が、本日読む章の窮極的一言、まとめの一言であるように思えます。
それを補うのが、やはりこちらも引用した二コリ4:17「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」であります。
これらが相互に働きかけて、パウロが本章にて拮抗した文章を用いて説く教えの結論的役割を担うておるのだ、とわたくしは考えます。手抜きではなく、本章の原稿をPagesで入力するにあたって次第に斯く思うようになったのであります。
お気付きの方もあろうかと思うが、これから数日の間、本ブログの更新時間を毎日午前2時から「当日中」ということで変更させていただく。基本的には日付の変わる直前となることが多かろうけれど、当方の体調もなかなか元に戻らず相当きつい状態が続いているので、なにとぞご理解を賜りたい。
むろん、毎日更新という原則は崩れない。「コリントの信徒への手紙 二」の読書と原稿執筆は既に半分を消化し、あと5日程で読了する。順調な読書ペースだ。予定通り今月中に終わらせるには、1日2回更新せねばならぬ日が1度だけ生じるけれど、特に問題あるまいと思う。
偶に音楽から離れたことをエッセイに書こうと思うたら、このような本ブログにまつわる自己弁護めいた内容になってしまった。芸のないことだとは自分でも呆れている。丸頭の少年に倣って、わたくしも溜め息交じりに呟こう、good grief、と。◆