第2175日目 〈コリントの信徒への手紙・二第9章&第10章:〈エルサレムの信徒のための献金〉&〈パウロの誇り〉with今日の読書を振り返って、独り言をする。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第9章と第10章です。

 二コリ9:1-15〈エルサレムの信徒のための献金〉
 (エルサレムの)聖なる者たちへの奉仕については以上です。われらはマケドニア州にてアカイア州では去年からこのことの準備ができている、というてあなた方を誇りました。結果、マケドニア州の人々は奮い立ち、自分たちも募金活動を始めたのです。
 よろしいですか、われらがそちらへ人を派遣するのは、マケドニアの人々へ誇ったことがたしかに行われているのを確認する意味でもあります。わたしがマケドニアの人々とそちらへ行ったとき、かれらに誇ったことが行われていないのは恥に他ならない。テトスたちを派遣するのは、以前あなた方が約束した贈り物を用意しておいてもらうことが必要だからです。渋々提供したのではなく、惜しまず率先して差し出したものとして、それを用意してもらいたいのです。
 惜しんでわずかの種しか蒔かぬ者は刈り入れも少なく、惜しむことなく豊かに蒔く人は刈り入れも豊かなのです。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。」(二コリ9:7)
 喜んで与える人を、神は愛します。あなた方は種を蒔く人、パンを糧とする人。神はあなた方に種を与えてそれを増やし、あなた方の慈しみが結ぶ実を生長させる。あなた方はすべてに於いて富む者とされ、惜しまず施すようになる。あなた方の行う施しはわれらを通して神への感謝の気持ちを引き出します。なぜかといえば、この施しは、聖なる者たちの欠乏を補うのみでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
 テトスたちはこうした奉仕が実際に行われた結果を報告しています。キリストの福音を従順に公言していること、自分たちだけでなく他の人々へ対しても施しの業に励んでいること、です。テトスたちは神が与えたこの上ない恵みに接して、あなた方を慕い、あなた方のために祈っています。
 神に感謝します、言葉ではいい尽くせないこの贈り物について。

 二コリ10:1-18〈パウロの誇り〉
 あなた方はわたしパウロについてこう仰っている、即ち、手紙のなかでは強硬だが、面と向かっては弱腰だ、と。そのパウロが、キリストの優しさと心の広さを以てあなた方にお願いします。──われらを肉に従って歩んでいる、と見做し、考えている者に対しては、そちらへいった際に直接、面と向かって、勇敢に立ち向かう覚悟です。できるならば、そのような事態が出来しませんように。わたしはそう願います。
 思い違いしないでほしいのですが、われらは肉に於いて歩んでいるけれど肉に従って戦うのではない。われらの武器は神に由来する力、つまり、聖霊の力であります。われらはその武器を頼りに理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢をねじ伏せ、あらゆる思惑を虜にして、キリストへ従わせる。あなた方の従順が完全なものになるとき、あらゆる不従順を罰する準備も終わるのです。
 あなた方のなかには、自分がキリストのものだと信じ切っている人がいます。でも、その人には今一度考えていただきたい。、同時にわれらもキリストのものなのだ、ということを。
 「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。」(二コリ10:8)
 手紙のなかでは強硬だが、面と向かっては弱腰だ、あれは話のツマラヌ奴だ。わたしのことをそんな風にいう人がいます。が、手紙を書くわたしと、そちらで行動するわたしとの間には、なんの隔たりもありません。
 自己推薦する人々と自分たちを同列に置いたり、比較しようなどとは考えていません。まったく以て愚かなことですから。われらは限度を超えて誇るようなことはせず、神が割り当てた範囲内で誇ります。われらはキリストの福音を携えて、誰よりも先にあなた方の許を訪れました。われらは他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。
 「ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。」(二コリ10:15-16)
 ──預言者エレミヤの書に曰く、誇る者は主を誇れ、と。この言葉をよく噛みしめて、真意をわかってください。

 パウロは優男であったのか──見る人によってはそう映ったかもしれない。眼病を患っていたともいうから、時として容貌も崩れたらしい。もとよりパウロを快く思わぬ者が実際かれと対面したら、外見から受ける印象に引きずられて内心でか或いは露骨にか、パウロを軽んじて軽挙妄動へ及ぶこともあったやもしれぬ。
 人の評価は容貌、外見に左右されることがある。いいや、そんなことはないよ、と曰う方は幸福だ。おそらく容貌ゆえに村八分になったり、イジメに遭った経験のない方だろうから。話を戻して、斯様な人が「その他大勢」から「選ばれた者」へ立場が変わると、周囲の人々の感情は変容する。風当たりが激しくなったり、陰に陽に誹謗中傷が巻き起こり、内心で留まっていた侮蔑、侮辱が表面化して、結果、かの人を迫害する羽目になる。わたくしはそんな経験を幾らでもしてきた。おこがましい物言いだが、わたくしにはパウロが──新約聖書のなかでは誰よりも自分に近しい存在として映る。むろん、わたくし以上の経験をしてきた方など、天空に瞬く星々、浜の砂粒の数と等しく存在しよう。それを承知でなお、わたくしは斯く思うのだ。
 障害持つ者を陰に陽に嘲笑して愉しむ輩が身近にいる。かれらは人間の形をした異生物だ。
 そんなシンパシーの深さと強さゆえか、パウロの痛みや悲しみ、苦しみ、そうして喜びに触れる度、わたくしも「使徒言行録」や各書簡の記述に影響されて一喜一憂してしまうのである。
 なんだか今日はいつも以上に、無性に、パウロに共感を覚えた。どうしたわけだろう。こうしたことを書くと、また狂信的などという、無理解と想像力の欠落に基づいた言葉が寄せられるのだろう。まぁ、それはくだらない話だし、関わり合いになることでもないので、無視する。当たり前だ、わたくしには時間がない。

 本日の旧約聖書は二コリ9:9と詩119:9、二コリ10:17とエレ9:23。



 2日分の読書と執筆ということでチト息切れ気味だけれど、これでどうにか今月中の「コリントの信徒への手紙 二」読了のメドが立った。
 午前2時の定時更新に復すことはかなわず、本書簡は最後まで当日中の更新と相成ってしまうけれど、まずは安堵。あとはこのまま進むだけだ。
 つつがなき読了を読者諸兄よ、どうかわたくしのために祈ってほしい。◆

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