第2176日目 〈コリントの信徒への手紙・二第11章:〈偽使徒たち〉&〈使徒としてのパウロの労苦〉with志賀直哉の読書について。〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第11章です。

 二コリ11:1-15〈偽使徒たち〉
 あなた方に対して神が持つ熱意をわたしも抱く。「なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた。つまりキリストに献げたからです。」(二コリ11:2)
 わたしが心配しているのは、あなた方の想いが汚されて、キリストに対する純潔と真心とから逸れてしまうのではあるまいか、ということです。われらが宣べ伝えたのとは異なるイエスが宣べ伝えられたり、受け入れることのない違った福音を受けたとしても、よく我慢しているからです。
 あの大使徒たちと較べれば、わたしは何者でしょう。でも、少しも引けは取らないと思います。たとい話しぶりが素人でも、知識はじゅうぶんに、豊かにある。これまでわたしはそのことをあらゆる点あらゆる面で示してきました。
 わたしは罪人でしょうか、神の福音を無報酬で宣べ伝えた廉で? あなた方を高めるため、自分を低くしたというのに? わたしはあなた方へ奉仕するため、他の諸教会から生活費を掠め取りました。あなた方の許で生活に困窮したときも、あなた方へ負担は掛けなかったですよね。マケドニアの兄弟たちがわたしの生活面を金銭等で支えてくれたからです。もう一度いいます。わたしはあなた方へ負担を掛けたりしなかった。今後もそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて。
 「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(二コリ11:12-15)

 二コリ11:16-33〈使徒としてのパウロの労苦〉
 兄弟たちよ、わたしのことを愚か者と思わないでほしい。が、愚か者と見做したくば、そうしてくれて構いません。わたしはこれから、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話します。賢いあなた方のことだから、まぁ、我慢してくれますよね。
 あなた方はどんな暴行や侮辱を受けても我慢しています。恥を忍んでいえば、われらの態度は弱過ぎたのです。
 誰かがわたしに訊ねます、お前はキリストに仕える者なのか、と。わたしは答えます、かれら以上にわたしはそうなのです、と。
 わたしはこれまで多くの労苦に直面してきました。投獄されたことも鞭打たれたことも、死ぬような目に遭ったことも石を投げつけられたこともあります。難船したことも一昼夜海上を漂ったこともあります。同胞や異邦人からの難、町や荒れ野での難、様々な難に遭いました。苦労し骨を折り、しばしば眠れず過ごし、食べるものに事欠くこともあれば、喉の渇きを覚えたこともある。寒さに凍え、裸で過ごしたこともありました。勿論これのみでなく、日々わたしを悩ます厄介事、あらゆる教会についての心配事もたくさんある。──誰かが弱まるならばわたしは強くならなくてはならず、誰かが躓くならばわたしは心を燃やさずにはいられないのです。
 「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。」(二コリ11:30-31)

 自らをキリストの使徒であると偽り、使徒と同じように誇ることを企む、自らを使徒に準えるがその資格なき衆を、「偽使徒」と呼ぶ。その人々の出現の背景が、使徒の権能を羨み、かつ妬んでの結果なのか、不明ですが、パウロはかれらが使徒に取って代わってデタラメな、有害な伝道を行わせないように今後も使徒として活動してゆくことをコリントの信徒たちへ、引用した二コリ11:12-15にて宣言しています。
 偽りの蔓延を妨げ、阻止するのは、義を除いて他にはないのであります。
 ──とはいえ、読者諸兄よ、お気附きだろうか、その直前パウロがとんでもないことを口走っている点に。嘘か誠か判然としないが、かれはコリント教会、コリントの信徒たちへ迷惑をかけぬよう、その地での生活費をマケドニアの諸教会から掠め取るようにしてまでも回収して、それに充てていた。ッ時一であれば、掠め取った生活費が実際はマケドニアの諸教会からの献金であったのか、或いは通常の献金にプラスアルファして幾許かの金額を上乗せしてそれを貯めこんで生活費にと流用したのか、もしくは本当にマケドニアの一部信徒たちにタカって懐に仕舞いこんだものだったのか、そのあたりは資料を基にしての検証をどなたかに依頼したい。誇張であるならば、コリントに対してパウロがどれだけ心を尽くし、なににつけ優先していたか、教会・信徒たちに気附かせようという狙いが見え隠れしてくるであろう。いずれであるにせよ、ここにはパウロの計算が働いているように思います。
 ノートからは省きましたが本章末尾で、ダマスコから脱出したときの様子がパウロ自身によって語られています。これは回心直後のパウロ/サウロがダマスコ宣教を行った際、かの地のユダヤ人に殺害されそうになって難を逃れたときの、使9:23-25の出来事をパウロの側から語った記述であります。二コリ11:32でその首謀者をアレタ王に帰しているのは、パウロの宣教によって配下の者たちがキリストを信じて、怒りを被ったゆえかもしれません。
 パウロが記す自ら経験した様々な労苦や難については、是非「使徒言行録」や各書簡から該当箇所を探してみてください。



 志賀直哉の読書がまったく捗らない。読もうと思うても朝は電車のなかでぐっすり眠り、夜はリュックのポケットに収まる文庫に手を伸ばすことを瞬間思うも直後には青空文庫を開いて鏡花の『眉かくしの霊』を読んでいる。困ったものである。寝しなには米澤穂信『氷菓』をあくびが数回出るまで読みふけり。
 好みでないのはわかっている。でも稀に、やたらと気に入ってしまう作品が出るので油断できない。とはいうても、「剃刀」以上に印象に残っている作品は精々が「網走まで」で、肉欲と理性と問題解決策としての<暴力>が組みこまれたDNA、この三者の葛藤を綴る「濁った頭」は判断保留だ。
 志賀直哉を読んでいちばん捗ったのは、病院の待合だ。その分量やテーマの一極集中、夾雑物のなさがそうさせるのかもしれない。今後も何度か病院へは行かねばならぬので、その際だけ志賀直哉の文庫を荷物に収めようかな、となかば真剣に考えている。◆

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