第2193日目 〈「ガラテヤの信徒への手紙」前夜〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 人は信仰によって義とされる。マルティン・ルターは<信仰義認論>のヒントを「ガラテヤの信徒への手紙」第2章で得て、それを基に聖書理解の一点突破を果たしました。この延長線上にドイツ語訳聖書の実現や数々の著作の執筆、そうして宗教改革があるわけです。
 本書簡の宛先となったガラテヤはどのような地なのか。そこは小アジア中部の高地であります。地図を広げていただくと、トルコ共和国の首都アンカラが目に付くでしょう。そこはアナトリア高原にありますが、その周辺地域はかつてガラテヤと呼ばれました。
 パウロの時代、ガラテヤはローマ帝国の属州の一つでしたが、遡ればガリア人、一説ではケルト人の一団が中部ヨーロッパより遠征してきて、ギリシアやマケドニア、トラキア(現:ギリシア、トルコ、ブルガリア)に侵入、その過程でアナトリア高原一帯に定住したかれらの子孫をガラテヤ人と呼び、その地方を指す名称となりました。その後、ガラテヤ人は自分たちの王国を立てましたが、前189年のシリア戦争にてローマに敗れ、その後は有為転変の末、前25年、ローマ帝国の属州になったのでありました。
 そも本書簡が書かれたのは、パウロと入れ違いでガラテヤに現れたユダヤ人キリスト者が、パウロが宣べ伝えたのとは異なる教えを説いて人々の間に広めたことに端を発します。その結果、ガラテヤの異邦人キリスト者はキリストの福音を離れて、別の福音へ向かったのです。
 別の福音、それは、律法を守らずしてキリスト者となることなし、というものでした。人々はそれを聞いて律法を受け入れ、割礼を自らへ施したのであります。──イエスは割礼なくして信仰には至らず、などと申したでありましょうか。否、でありますね。イエスはユダヤ教が信奉する律法を、或る意味で否定していたのですから。
 ガラテヤの信徒たちが別の福音を信じるようになった、ということを聞かされたパウロは、かれら宛てに手紙を書きました。おそらくそれは一気呵成に書かれたのだろう、とは最初から読んでゆくと容易に推測できることであります。
 手紙のなかでパウロは、件のユダヤ人キリスト者の説いたことが誤りであるのを伝えました。正しい信仰へ立ち帰り、自分が宣べ伝えたキリストの福音を受け容れなさい。割礼はユダヤ教の儀式であり、ユダヤ教徒として生活するには必要とされるが、それはけっしてキリストの福音ではない。況してや律法とキリストの救いとまったく無関係である。──パウロは「ガラテヤの信徒への手紙」でそう訴えました。
 「使徒言行録」に拠ればパウロは3度、つまり宣教旅行の都度ガラテヤ地方を訪れています。旅程を組むにあたり陸路を選べば自ずと通過することになる、というてしまえばそれまでですが。とまれ、「使徒言行録」を基に訪問の一覧を作れば以下の通り、──
 1;使14:1-24 45-48年頃 南ガラテヤ地方(同行者:バルナバ)(※)
 2;使16:6  50年頃   フリギヤ・ガラテヤ地方
 3;使18:23  54年頃   ガラテヤとフリギヤの地方
 ※イコニオン、リカオニア州(リストラ、デルベ)、ピンディア州
 件のユダヤ人キリスト者がいつ、そこに現れ、パウロがいつ、どこで本書簡の筆を執ったか、定かではありません。いつもながらタイムマシンが欲しいですな。
 宛先が第1回宣教旅行時に福音を説いた南ガラテヤ地方の信徒たちなのか、第2回或いは第3回宣教旅行時に訪ねた北ガラテヤ地方の信徒たちなのか、どちらなのかによって執筆年代や場所は変わります。北ガラテヤ地方の信徒たち宛てに書かれたのであれば、それは第2回目のときなのか、第3回目のときなのか、そこでまた話は変わってまいります。
 調べて知り得た範囲で申しあげますと、宛先が南ガラテヤ地方であれば48年頃、アンティオキア説があります。また、50-51年頃にコリントで書かれたという説もある。宛先を北ガラテヤ地方とすれば52-54年頃エフェソにて執筆された、という説が有力。今日では北ガラテヤの信徒に宛てられたとするのが専らである由。
 ただ──私見を慎ましく申しあげれば、第1回宣教旅行中に書かれた、という説に与したく存じます。
 パウロは南ガラテヤ地方を回り、各地にキリストの教会を建立しました。異邦人はパウロの福音に打たれて改宗したでありましょう。キリストのため、異邦人キリスト者のために教会は立てられたのであります。パウロはそこでの宣教が終わると、新たな信徒たちに見送られて次の地へ出発してゆきました。
 はっきりとはしませんが、ユダヤ人キリスト者がその地へ姿を現したのは、パウロが去って程良い時間が経った頃合いだったろう。キリストの福音が異邦人キリスト者のなかへ根附こうとしていた頃──。
 まだかれらの信仰が完全でないところへ入りこんで来て、パウロたちが説いてかれらのなかに染みこませた福音が誤りであると喧伝して、終いにはパウロの使徒としての資格さえ怪しいものだと槍玉にあげる始末、──
 あなた方の聞いた福音は偽りだ、われらの語る福音こそが正しい。なんとなれば律法を守らずしてキリスト者となることなし、だからである。パウロはその律法を守らず、自分に割礼を施してもいない。ゆえにパウロの語る福音は偽りであり、キリスト者としての資格はおろか、福音を語る使徒としての資格もない、と。
 それを聞いたガラテヤのキリスト者たちは信仰をぐらつかされ、多くが宗旨替えを実行しました。パウロの説いたキリストの福音から離れて、ユダヤ人キリスト者が喧伝する福音へ……。
 この報告を承けたパウロは失望と憤慨のうちに本書簡の筆を執り、キリストの福音を説いてそこへ立ち帰るよう促しました。時に48年頃、シリアのアンティオキアにて。
 もっとも、第2回、第3回宣教旅行後の執筆という説にも一部首肯してしまう箇所なきにしもあらずなのですが、それでもわたくしは、不安定な信仰へ一石を投じること可能な時期として、第1回宣教旅行中乃至は後の執筆に高い信憑性を感じ、現実的ではあるまいか、と思うのです。
 「ガラテヤの信徒への手紙」は「ロマ書」や「第一コリント書」、「第二コリント書」に較べて規模は小さく、章数も少ないことから短時日での読了が可能であります。とはいえ、それは価値をいちばん下へ置くことを意味するのではありません。むしろパウロの思いと信仰がストレートに書かれた、極めて肉声に近い手紙である、とわたくしはいいたいのであります。
 パウロはここで言葉を飾ることも表現に技巧を凝らすこともなく(この点、どこぞのブログとは正反対でありますな)、自分の信じる福音と信仰を、簡素に、されど豊かな文章で綴ります。等身大の言葉で語られるキリストの福音は、ガラテヤの信徒のみならず時を経るに従って多くのキリスト者の心を支えたことでありましょう。──この小さな手紙を読みながら、わたくしは斯く思うであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「ガラテヤの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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