第2196日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第3章&第4章1/2:〈律法によるか、信仰によるか〉、〈律法と約束〉他withカラヤンのバロック音楽が好きだ!〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第3章と第4章1/2です。

 ガラ3:1-14〈律法によるか、信仰によるか〉
 物分かりの悪いガラテヤの信徒への手紙の人々、あなた方を惑わせたのは誰だ。考えてみるがよい、自分たちが“霊”を受けたのは、律法によるのか、信仰によるのか、を。あなた方は“霊”によって始めたことを肉によって仕上げようとするのか。嗚呼、なんたる愚! あなた方へ“霊”を授け、あなた方の間で奇跡を行う方は、あなた方が律法を行ったためにそうするであろうか。それとも、福音を聞いて信じたからか。どちらであるか、よく考えよ。
 「創世記」にあります、アブラハムは神を信じたことで義とされた、と。ゆえ、信仰に従って生きる人々こそアブラハムの子であると弁えよ。聖書は既に異邦人が信仰によって義とされることを見越していました。疾うにアブラハムへ告げられていたのです、あなたのゆえに異邦人は皆祝福される、と。
 律法に頼る者は皆呪われている。律法によっては何人と雖も神の御前で義とされることはありません。。律法は信仰を拠り所としていないからです。──キリストはわれらのために呪いとなり、われらを律法の呪いから贖い出してくれました。木に掛けられた者は皆呪われている、と「申命記」にありますが、それは、アブラハムへ与えられた福音がキリストによって異邦人へと及ぶためでした。一方で、われらが、われらに約束された“霊”を信仰によって授かるためだったのです。

 ガラ3:15-20〈律法と約束〉
 もうちょっとわかりやすく説明しましょうか。法的に有効とされた遺言は、無効にすることも変更することも追加することもできません。
 アブラハムとその子孫に対して、神は約束として告げました。その際、かれに続く多くの人を指して、「その子孫たち」というたりしないで、そのうちのただ1人を指して「あなたの子孫とに」と表現した。神はアブラハムの時代、既にキリスト、即ちナザレのイエスのみを指名していたのです。
 神によってあらかじめ有効とされていた契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、反故にすることはできません。相続が律法に由来するならば、もはやそれは約束に由来するものではない。が、神は約束によってアブラハムへ恵みを与えたのです。
 では、律法とはいったいなんでしょう。それは約束された件の子孫が現れるまで、天使を通して仲介者の手により制定されたもの。1人で行うならば仲介者は不要です。約束についていえば、神は仲介者なしで事を運んだのです。

 ガラ3:21-4:7〈奴隷ではなく神の子である〉
 ──では、律法は神の約束に反するものなのか。先祖に与えられたのが、人を生かす律法であるならば、人は律法によって義とされたでしょう。が、聖書はすべての者を罪の支配下に留めた。神の約束がキリストへの信仰によってそれを信じる人々へ与えられるようにするためです。
 信仰がわれらの上に現れるまでは、律法の監視下にあった。信仰が現れるまでの間、それはわれらを閉じこめる檻だったのです。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラ3:24-25)
 ガラテヤの人々よ、あなた方はいずれもキリストによって結ばれて神の子となったのです。もはや人種も身分も関係なく、あなた方はキリストによって結ばれて一つになったのです。あなた方は、もしキリストのものであるならば、なにはさておきアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
 相続人と雖も未成年であるうちは全財産の所有者でありながらそれを自由にすることはできず、父親が定めた期日になるまで管理人や後見人の監視下に置かれます。実はわれらも同じで、未成年であるうちは世を支配する諸霊に奴隷の如く仕えていました。
 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ4:4-5)
 ──あなたはもはや奴隷ではない。子です。子であることは神によって立てられた相続人でもあるのです。

 パウロは全編にわたって律法と信仰の関係について検討します。そうして、キリスト者は信仰に入るまでは律法に搦め捕られているけれど、ひとたびキリストへの信仰により神と結ばれ信じるようになった後はもはや律法からは自由であり、かつて神とアブラハムの間に結ばれた約束の相続人となったのだ、という、思わず膝を打ってしまいたくなる結論に至る。
 パウロが熟考と苦心を重ねた末に導き出した律法と信仰の関係についての見解を、何度も読み返してわれらは自分の糧とすべきかもしれません。ルターの<信仰義認論>を強化する根拠にもなった章であります。

 本日の旧約聖書はガラ3:6と創15:6、ガラ3:8と創12:3及び同18:18、ガラ3:10と申27:26、ガラ3:11とハバ2:4、ガラ3:12とレビ18:5、ガラ3:13と申21:23、ガラ3:16と創12:9、ガラ3:17と出12:40-41。



 行き付けの中古CD店でカラヤン指揮ベルリン・フィル(の選抜メンバー)によるヘンデル《合奏協奏曲》作品6の全曲盤が転がっている。
 仕事が終わったらばさっさと飛んで行き、お札数枚をレジに残してその場を飄然と去り、誰も見ていないところで、ぎゅっ、と、わが胸に抱きしめたいのだが、その時間が取れなくて困っている。性格上、業後の作業を他人に押し付けることもできず、この原稿が極めて短い時間で完成稿に至ることもない。よしんばそれができたとしても、店の閉店時間に間に合うかどうか……。これなむ、ディレムマ、といふ。
 モーツァルトと並んでカラヤンのバロック音楽は全体的に評判が芳しくないらしい。が、わたくしはカラヤンの振るバロック音楽は意外と好きなのだ。特に、1980年代に録音されたバロック音楽集は長年にわたる愛聴盤である。たとえばここに収められるヨハン・パッヘルベルの《カノンとジーグ》やトマス・アルビノーニの《アダージョ》は、わたくしにとってスタンダード的演奏となり、新しくこれらの曲を聴くにしても好みかどうかは、カラヤンの演奏の上を行くか否か、という一点にかかっている。
 まぁ、録音の本拠地がフィルハーモニーへ移ったあとのバッハ《ブランデンブルグ協奏曲》だけは、やたらとこってりした演奏に胃もたれに似た具合の悪さを覚えて当初は御免被る、殆ど唯一の例外であったけれど、これとてあれから四半世紀が経過した現在はこの曲のベスト3に入る程のお気に入りである。
 オラトリオ《メサイア》をきっかけにして好きになったヘンデル。《王宮の花火の音楽》や《水上の音楽》は勿論、一時は輸入盤でしか聴けないオペラや宗教曲にまで手を伸ばした程だが、今ではすっかり関心は下火である。迎えに行く時間を捻出できたとき、まだそれがそこにいてくれるならば、《合奏協奏曲》作品6が呼び水となって再びヘンデル熱が──望むべくはバロック音楽熱が──再燃してくれることを望む。◆

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