第2204日目 〈映画『残穢 ──住んではいけない部屋──』を観てきました。〉 [日々の思い・独り言]

 抑制の利いた演出がよけいに怖さを増している。過剰という表現とこれ程無縁なホラー映画も珍しいだろう。『残穢 ──住んではいけない部屋──』を観終えて斯く思うた。
 行き過ぎて滑稽としかいいようのない作劇や、これ見よがしな演出で観客の恐怖心は煽れない。もしかりに、スクリーンへ映し出される映像に工夫を凝らして、観客の恐怖を一時的に煽ることができたとしても、である。作品全体に、或いは一コマ一コマへ漂う空気に恐怖の因子がまるで漂っていないならば、おそらくその作品を観たあとにはなにも残らず、遊園地のアトラクション程度の印象しか与えられないであろう。「怖かった」、精々がそれだけで後日、不意に自分のなかへよみがえって思わずぶるっ、と震えてしまう、なんていう経験をさせることはないだろう。
 怪談実話を書いている小説家の許に読者からの手紙が舞いこんできて、手紙の主が経験している怪異の原因を探ってゆく、というのが本作のプロットである。これだけでご想像もつくだろうが、この映画はフェイク・ドキュメンタリーの手法を採用した、あくまで実話の体裁を持つ。それだからこそ、劇中の空気感が大切なのだ。しかもいたずらに現実の出来事である、と強調することもなく、淡々と、しかものっぴきならない震源へ、作中人物たちと一緒にわれら観客も近附いてゆくことに。
 特に注目いただきたいのはラスト・シーン。主演の竹内結子演じる「私」がマンションの住人の<その後>を説明するのだけれど、おそらく殆どの観客が気附いていたことと思う、どの場面でも厭な気分にさせるような演出がされているのだ。そうして「私」が受け取る電話や新居の廊下の電気など、まさに劇中で語られる「話しても聞いても憑かれる」が具体的に迫ってくる場面。これらは是非、劇場でもDVDでも構わぬから、耳と目を作品に集中させてご確認いただきたい。
 『残穢』はホラーというよりも怪談である。双方の厳密な定義はややこしい話になるのでさておくが、わたくしは後者を皮膚の下に入りこんできて、好むと好まざるとにかかわらず記憶にはっきり残り、心のなかへ長い年月巣喰う性質を持つものだ、と思うている。小野不由美の原作を上手くアレンジして仕上げたこの映画は、近年まるでお目に掛かることのなかった怪談映画の孤高の傑作というて良い。
 抑制が利いた演出のされた映画は、抑制の利いた演技ができる実力者を必要とする。となれば、竹内結子、橋本愛という女優が銀幕を飾るのは道理だ。表現力に優れた女優は多くいるが、現実の延長線上で体験する恐怖の探索者、目撃者として、彼女たちの持つプラスαが映画には求められていたのである。
 観客の水先案内人にもなって不可解な出来事の震源へ辿ってゆく過程で、2人の立ち位置が明瞭になってくる。竹内結子演じる「私」は傍観者、橋本愛演じる「久保さん」は牽引役、という立ち位置。「久保さん」から投げて「私」が返す図式のキャッチボールは、いつしかまだ明るさのはっきり残る黄昏の世界から眼前にかざした手がはっきり見えない程の漆黒の闇のなかへと、<場>を移してゆく──。
 それは「話しても聞いても憑かれる」という言葉がわが身に降り掛かるであろうことを承知してなお、知らずにはいられない、未知のものを解明したい、と思う。それは或る意味で人間として当たり前の行動なのだが、竹内結子も橋本愛もじゅうぶん自覚しているのに自分を突き動かす衝動から逃れられない、一種の<業>を抱えての行いであると認識した演技をしているのだろう。もしわたくしの推測が当たっていたら、この2人を主演に迎えた『残穢』はとても幸せな映画である。
 共演者については申し訳ないが、名を列記させていただくに留める。怪談作家平山夢明がモデルの平岡芳明には佐々木蔵之介、ミステリ作家で原作者小野不由美の夫綾辻行人がモデルの「私」の夫には遠藤賢一、平岡同様後半から登場して穢れの連鎖を「私」たちと一緒に辿ってゆく心霊マニア三澤徹夫には坂口健太郎、他。
 監督:中村義洋、脚本:鈴木謙一、音楽:安川午朗、美術:丸尾知行、撮影:沖村志宏、原作:小野不由美(新潮文庫)、他。
 原作小説が最凶にイッテしまっている『残穢』を見事に映像化したこのスタッフとキャストで是非、小野不由美もう一つの傑作──こちらは紛うことなきホラーである『屍鬼』の完全映画化を希望する。◆

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