第2207日目 〈「エフェソの信徒への手紙」前夜&〈獄中書簡〉について。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 「エフェソの信徒への手紙」は〈獄中書簡〉と呼ばれる書簡群の最初であります。この名称は「エフェソの信徒への手紙」とこれに続く「フィリピの信徒への手紙」、「コロサイの信徒への手紙」、<パウロ書簡>の最後を飾る「フィレモンへの手紙」に冠せられたもので、いずれもパウロが獄中の身にあった時分に書かれた手紙をいうのです。
 では、この「獄」とはどこなのか。ローマだという者もあれば、シリアのカイサリアであるという者もいる。いずれも2年の間パウロが監禁もしくは軟禁されていた場所であります(カイサリア/使24:27、ローマ/使28:30)。
 わたくし自身は人の出入りが激しかったと想像されるローマよりは、たびたび総督フェリクスから呼び出されたと雖もじっくりと自分の考えを整理して言葉で表現する術を練ることの出来たカイサリアこそその場所に相応しい、と思うております。人類史を根本から揺るがすような、或いは価値観の変動を求めるような思想は育って行くには、なんというても持続される静寂と機械的な生活サイクルが必須でありましょう。「獄」の場所を求めるにあたり、ざわめくローマの借家よりは沈黙のカイサリアの監獄を選択肢として出されれば、わたくしはどうしてもカイサリアに可能性を見出すのであります。
 但し、「使徒言行録」とてパウロの動向を逐一書き留めたわけではないでしょうから、われらの知らない長期の獄中生活を(継続してか断続してかは別として)過ごしたことがあったかもしれない。史実は常に歴史の闇へ隠されてしまうこと多々であります。これを一概に誇大妄想と切って捨てることは誰にもできないのではないでしょうか。
 そうなると、4つの書簡の執筆場所はシリアのカイサリアに限定され、また執筆年代も自ずと範囲が狭まってくる。どれが最初か、となると熟考を要しましょうし、もはやわたくしの手には負えないことを自覚するよりないが、およそ58-60年の間に書かれて、かつ順番は不明である、と申しあげるが精々であります。

 では、「エフェソの信徒への手紙」。
 「使徒言行録」の後半でパウロは3次にわたる宣教旅行中、幾つもの町乃至は村を訪れました。今回の手紙の宛先であるエフェソはそんなパウロが訪れた町のなかでも特に記憶に残る所であります。というのも、(観光土産になっている)アルテミス神殿の模型製作に携わることで生計を立てていた職人らがパウロの宣教に反対して暴動を起こした挿話は、第3回宣教旅行のハイライトというてよいものだったからであります(使19:21-40)。
 旅行が終わってカイサリア監禁中の2年間のうちに、パウロは本書簡の筆を執りました。では「エフェソの信徒への手紙」はどのような内容を持つのでありましょうか。
 要約すると、キリストの愛によってユダヤ人も異邦人もすべて結び合わされ、キリスト者としての新しい生活を各人で営みなさい、ということ。その新しい生活をパウロは夫婦、親子の間に適用し、主人と奴隷の間に援用し、そうしてキリストに反する<悪>と戦うよう説くのでした。最後のものについて先走って引用すれば、──
 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェ6:10-12)
 わたくしの感想でしかありませんが、本書簡はこれまで読んできたなかは勿論、13あるパウロ書簡のなかでも特にわかりやすく、読みやすいものであるように思うのであります。おそらく、ここで語られている内容が神学というよりも人生論、人間関係の助言のように読めるからでありましょう。キリスト教が夫婦や親子の有り様について述べる事柄は、本書簡に源流といいますか基盤があるように思えます。
 「エフェソの信徒への手紙」の執筆年代について書き忘れるところでした。パウロがカイサリアに監禁されていた頃、ローマ帝国から任命されてユダヤ総督の地位に在ったのは、アントニウス・フェリクスとその後任ポルキウス・フェストゥス。パウロはフェリクス在任中に投獄/監禁され、フェストゥス着任の年──つまり総督職が引き継がれた60年──に解放された。本書簡が58-60年の間に書かれた、と先に述べた背景はこれであります。
 なお、「エフェソの信徒への手紙」は同じ〈獄中書簡〉の一、「コロサイの信徒への手紙」と内容的にも表現的にも酷似した箇所がある、といいます。ゆえに2つの書簡が期を同じうして別々の宛先へ書かれた、と考えるのが自然であります。が、一部には「コロサイの信徒への手紙」をパウロ真筆とし、それを基にして他人が「エフェソの信徒への手紙」を書いた、と主張する一派もあるそう。さりながら本ブログではそうした説があることを紹介・容認しつつも、特にそれに拠ることなく進めてまいります。
 それでは明日から1日1章の原則で「エフェソの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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