第2209日目 〈エフェソの信徒への手紙第2章:〈死から命へ〉&〈キリストにおいて一つとなる〉with本ブログの今後について。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第2章です。

 エフェ2:1-10〈死から命へ〉
 以前までのあなた方は自分の過ちと罪のために死んでいました。肉体は生きていても、霊は死んでいたのです。それというのもあなた方はこれまで、世を支配する者、かの中空を勢力下に置く者といった不従順な者らのなかにある霊に従っていたからです。
 われらもかつてはこうした諸霊に従っていました。われらの神と無縁な生を営む者らに混じって、いつしか罪に彩られた放埒な生活を送っていたのです。が、神はそんなわれらに憐れみをかけて、この上なく愛してくれました。加えてその愛によって、罪ゆえに死者となっていたわれらを、われらの罪を贖って死んで復活したキリストと共に生かし、共に天の王座へ着かせてくれもした。
 「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」(エフェ2:7-8)
 これは神の賜物なのですよ。自分の力で為された行いではありません。何人と雖も誇ることがないようにするためです。また、神が前以て準備していた善き業のために行き、歩むためです。

 エフェ2:11-22〈キリストにおいて一つとなる〉
 そのことを心に留めておきなさい。かつてあなた方は異邦人と呼ばれ、割礼を受けていない者と称されました。キリストを知らず、イスラエルの民と関係を持たず、約束を含む契約と無縁で、この世に希望を抱くことなく神を知らぬまま、あなた方は生きてきた。が、もはやそうではない。いまはキリスト・イエスに於いてキリストの血によりそれと近しい者となったのです。
 キリストはわれらが平和。自分の肉に於いて敵意という隔たりの壁を壊し、規則と戒律に縛られて名ばかりとなった律法を棄てました。キリストは十字架を通して両者を1つに結び合わせ、神と和解させた。そうして十字架によって敵意を滅ぼした。
 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェ2:17-18)
 従ってあなた方はもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者であり、神の家族なのです。いまのあなた方は使徒や預言者を土台としたその上に建てられている。その要、その礎石は勿論、キリスト自身であります。キリストに於いて土台の上のものは成長し、結び合わされて教会または聖なる神殿となる。あなた方も霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 キリストに於いて1つに結びあわされた者は、誰もが神の子、神の家族である。それは即ち自分の内にこそ神は在る、という以前読んだ書簡にてパウロが発信したメッセージへつながります。
 他のパウロ書簡で述べられていたそのことが本章でも再び取り挙げられることで、<点>の状態で頭のなかにあったものが他と関連附けられてゆく。これまで暗くてよく見えなかった<点>の周囲に光が射して、以前に述べられてそのままにしてあった他書簡或いは<点>が案外近くにあって、しかも双方をつなげる線が件の<点>と<点>の間に見えたことで、立体的に物事が把握できてくる実感を、徐々に抱くことができます。読書の継続なくして斯様な経験はありますまい。
 エフェ2:2「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い」はなんだかとってもカッコイイ文言だなぁ、と鼻の下を伸ばし、エフェ2:12「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」はちょっと言い過ぎというかエフェソの信徒の過去についてどうして斯くも傷口に塩を塗りこめるようなことをこの人はしでかすのだろう、と思わず頭を振っちゃったことでありますよ。



 そろそろ本格的に考え出さなくてはならない時期が来たようです。あと半年もすればお別れなのですから。
 病気や怠惰、事故等がない限り本ブログは予定通り、夏の終わり頃に聖書全巻の読書を終えて大尾となります。その後について考えておかなくてはならないな、と、仕事と原稿書きを終えて夜の街を歩きながら、最近頓に思うようになったのであります。
 当初目論んでいた、たとえばトマスやユダの福音書や新約聖書外典、死海文書やナグ・ハマディ文書などの原稿を、すくなくとも現在と同じような形で本ブログに発表することはないでしょう。力尽きたのだろう、といわれては返す言葉がありませんけれど、むしろ疑問を抱いた、という方がより真実に近いかもしれません。
 ……自分は聖書やユダヤ教/キリスト教に精通したいのか。否。約束を果たす、という意味では旧約・旧約続編・新約を読了してここにこうして記事をお披露目しておれば、それだけでいいはず。そこから逸脱してまで、自分は外典や死海文書等の読書に血道をあげたいのか。否。際限なき薄闇の未来は実人生だけでじゅうぶんであります(大袈裟か)。──もっとも、全体の見渡しができていないから及び腰になっているだけかもしれませんが。
 まぁ、聖書にまつわる未来は現実味が薄いためともかくとして、その後も週に1日か2日程度の感覚でこれまで通りの内容雑多なエッセイ、時には小説をお披露目してゆこうかな、ぐらいには思うております。わたくしは中学生の頃から今日まで途切れることなく文章を書いてきた者なので、骨の髄にまで染みついた道楽ともいうべきこの愉しみを放棄することはできません。
 開設当初からの読者はお気附きかもしれませんね。既に『論語』や『コーラン』、『神曲』などの読書ノートブログを書く意思が、わたくしから消え失せていることを。これはこれで相当に骨の折れる作業ですよ。『論語』は学生時代から実に馴染みのある書物ですから、他に較べればまだ良いかもしれませんね。
 聖書の読書が終わるあと半年のうちに、その後の方向性を見出せるようにしておきましょう。あと半年しかない。でもまだ半年もあるのだ。うむぅ……。◆

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