第2210日目 〈エフェソの信徒への手紙第3章:〈異邦人のためのパウロの働き〉&〈キリストの愛を知る〉with相手の目を見て物をいえ。〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第3章です。

 エフェ3:1-13〈異邦人のためのパウロの働き〉
 わたしはあなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚人になっています。
 この手紙の冒頭で書いたように、神による秘められた計画の啓示がわたしへもたらされました。キリスト以前は何人も知らされていなかったこの計画は、いまでは“霊”ゆえにキリストの聖なる使徒たち、預言者たちへ啓示されています。つまり、異邦人と雖も福音によってキリストに於いて、約束されていたものをわれらと一緒に受け継ぎ、同じキリストの体に属し、同じ約束に与る者となったわけです。
 神はこの世でもっともつまらなくて卑しい者、つまりわたしパウロに、異邦人への宣教者たることを課しました。と同時に、神のその力を以てわたしは恵みを賜ったのであります。わたしはその恵みにより、キリストの計り知れない富──福音について異邦人へ告げ知らせて回り、万物の創造主である神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が如何にして実現されるのか、それを説き明かして回っています。
 今日、そうした神の知恵や計画は教会によってあまねく知られるようになりました。これは神による永遠の計画が主イエス・キリストによって実現されるためなのです。
 「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェ3:12-13)

 エフェ3:14-21〈キリストの愛を知る〉
 わたしは祈ります、御父の前に跪き。
 どうか御父がその豊かな栄光、その霊により、力を以てあなた方の内なる人を強め、信仰によりあなたの心の内にキリストを住まわせてくれますように。どうかあなた方が御父によって愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となりますように。
 「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェ3:18-19)
 ああ、わたしたちが望んだり思ったりする以上のことをかなえられる神に、栄光が世々限りなくありますように。教会と、キリストによって。アーメン。

 これまでわれらは「ロマ書」から始まって5つのパウロ書簡を読み、いまはこうして6つめのものを読んでいます。
 日本語で読んでいるため表面的な事柄しか窺えないときもありますが、瞥見していずれにも共通して出て来る話題があるのはなんとも興味深いものだと思います。そのうちの1つが、使徒としての、宣教者としての役目を陳述した件であります。むろん、その度毎に小見出しが設けられているわけでありません。本文のなかへ組みこまれているものだってある。
 そこに気附いて改めて読み返してみると、面白い。そうして推理してしまう──なぜパウロはあたかも変奏曲の如く、ここの書簡に於いて自身の役目について書いたのだろうか、と。ここまで読んだ手紙が偶々そうした記述を持つだけで、次に読むものからはそんな意味の文章はまるで出て来ないかもしれない。あり得ることだ。偶々こうした記述を持つ手紙が残って、新約聖書に収められただけなのかもしれない。じゅうぶんあり得ることだ。
 どちらであったにせよ、異邦の信徒たちへ手紙を書き送るにあたって都度パウロは自身に課された役目/職務、自身が使徒として選ばれた正当性を語らずにはいられなかったのでしょう。パウロを偽使徒と称して腐し、その資格を疑い、貶める者らのいたことは「使徒言行録」や「コリントの信徒への手紙 二」、「ガラテヤの信徒への手紙」に明らかでありました。パウロは目に映らぬけれども確実に存在する無理解者、迫害者の存在を念頭に置いて、手紙の筆を執っていたのかもしれませんね。



 相手の目を見て物のいえぬ輩が増えて呆れてしまいます。
 たとえば。相応に目を惹く容貌の女性が本日、行き付けの某飲食店に居ってな。マホでLINEするのが最優先らしく指だけ器用に動かして、注文を取りに来た店員など一瞥もせずにぼそぼそした声で注文。聞き取れなかった店員が今一度聞き返すと逆上してスマホをテーブルに叩きつけて、こっちは忙しいんだよ、一度で聞き取れ馬鹿野郎! とかの女性はぶち切れた。
 哀れなり、テーブル。哀れなり、画面のひび割れたスマホ。後者についてはこうもいえよう、自業自得、と。更に哀れと思うのは、その場に於ける優先事項の判断を誤って、挙げ句に己の評価を自ら落とした件の女性だ。テーブルと店員には同情申しあげるが、スマホと持ち主の女性についてはいささかの情も湧かぬ。蔑むばかりじゃ。ニンジンと干瓢ばかりの駅弁にも劣る。
 が、こんなのは実際に目撃し得た、氷山の一角。会社にもいます、どんなところにもいます、こうした人。場合によっては自分だって知らず行っているかもしれない。が、しつこく付きまとう小売業の店員を無視したいときだけだ、こんな技が通用するのは。せめて人になにかを頼むときは相手の目を見て物をいえ。そんな当たり前のことができないって、いったいどんな育ち方をしたのだろう、と小首を傾げるね。
 社会人としては勿論だけれど、こうしたことって小学生や幼稚園児でも必要でしょ。ということは、物心ついたときには教えられていなければ可笑しいのでないのかな。まぁ、そこまでゆくと親の育て方、という話になるのだろうけれど、それは間違っている。要は本人の問題だろう。
 人として当たり前のことができない人など、どれだけ世間から敬われたり好かれたりしていても、わたくしは信じない。信じられません。どれだけ立派な地位に在って尊敬されているようでもモラル欠落者として世にはびこるぐらいなら、酸いも甘いも知った者として善き業を行って社会の片隅で無名のまま暮らす方が、どれだけ幸せであることか。前者が語る人生は金メッキ、後者が語る人生は本物。そんな分け方もできるかな。◆

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