第2211日目 〈エフェソの信徒への手紙第4章&第5章1/2:〈古い生き方を捨てる〉、〈新しい生き方〉他with可処分所得が増えたなら、……〉 [エフェソの信徒への手紙]

 エフェソの信徒への手紙第4章と第5章1/2です。

 エフェ4:1-16〈キリストの体は一つ〉
 わたしはあなた方へ奨めます。神に招かれたのならばその招きに相応しく歩みなさい。高ぶらず、柔和で、寛容の心を持ってください。愛を以て互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つよう努めるのです。主は1人です。信仰は1つしかなく、洗礼も1つしかありません。すべての父である神は唯一です。神はすべてものの上にあり、すべてのものを通して働きかけ、すべてのものの内にいます。
 聖なる者たちはそれぞれの分に応じて奉仕の業に尽くす。或る者は使徒に、或る者は福音宣教者に、或る者は教師や牧者に、といった具合に。斯くしてわれらは皆神の子に対する知識と信仰に於いて1つのものとなり、成熟した人間となり、満ちあふれるキリストの豊かさになるまで成長するのであります。もう未熟な者ではありません。風評や、風が吹く度毎に変わる教えに玩ばれたり、惑わされたり、迷わされたりしません。愛に根ざして語り、キリストへ向かって成長してゆくのです。
 体全体はキリストによって結ばれて1つとなり、各部位はそれぞれの分に応じて働き、自ら愛によって造り上げられてゆく。

 エフェ4:17-24〈古い生き方を捨てる〉
 あなた方は未だキリスト者にあらざる異邦人と同じような、知性は暗く、無知で頑な、そうして淫蕩な生活を送ってはなりません。あなた方はキリストによって結ばれた神の家族なのです。
 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェ4:22-24)

 エフェ4:25-5:5〈新しい生き方〉
 エフェソの聖なる人々よ。偽りを捨てて、各々が隣人に対して真実を語るようにしなさい。われらは互いに体の一部なのです。
 たとい怒ることがあってとしても、罪を犯してはならない。怒りを持続させてはなりません。それは悪魔に付け入る隙を与えるだけです。
 泥棒はこれまでの所業を改めて、今日から盗みを働いたりしてはなりません。労苦して得た正当な収入のなかから困っている人々へ分け与えなさい。
 誹謗中傷、それに類する悪い言葉を口にしてはならない。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ4:29)
 神の聖霊を悲しませるな。あなた方は聖霊によって贖いの日に対して保証されているのだから。
 無慈悲、憤り、怒り、喚き、妬み誹りなど<負>の感情、<負>の行いの一切を捨てなさい。互いに親切にしなさい。憐れみの心で接しなさい。赦し合いなさい。
 ──あなたは神に倣う者となれ。キリストのように、愛によって歩む者となれ。自らを貶め、下劣と後ろ指指されるような言動を取るな。
 それよりも、感謝を。あなた方はかれらと違い、キリストと神の国を受け継ぐことができるのだから。

 本章はとても良い章であります。人間如何に生きるべきか、については、西洋に於いてはギリシアやローマの哲学者たちにより、東洋に於いては孔子を筆頭に数多の思想家たちにより、説かれ、書かれ、そうして幾万という人々に読まれてきました。この流れが実に今日に至るまで絶えることなく続いていることは、書店へ行けば一目瞭然でありましょう。
 聖書のなかでも度々それは取り挙げられてきましたが、本章はそのなかでもいちばんわかりやすく、具体的で、実践的であります。これが人間教育の現場に適用されると敬虔な人物ができあがることは簡単に想像できます。
 が、わたくしは本章を読んで牧者の誰彼よりも真っ先に、カール・ヒルティやハマトンを想起したのであります。さほど突飛な連想ではない。新しい生き方として提示されたパウロの意見はその後千数百年にわたって西洋社会で醸造されて熟成し、やがてかれらのような人物を生み出す背骨となったわけですから。ヒルティやハマトンの人物像に想いを巡らし、またその著作に親しんだならば、わたくしのこの発言に違和感を覚えるどころか賛意を示してくださる方はきっと多い、と信じております。

 本日の旧約聖書はエフェ4:8と詩68:19,エフェ4:25とゼカ8:16,エフェ4:26と詩4:5(70人訳)。



 学生時代の読書は文庫が中心で、とてもではないが単行本を買うことなどできなかった。小説にしろ、人文科学の本にしろ、単行本は図書館で借りるか、新刊書店で立ち読みするものと相場が決まっていた。古本屋を数に入れないのは個人的理由によるので、いまは触れない。
 所謂可処分所得が少ないと、書籍購入代に充てられる金額はその分シビアになる。探し歩いて、吟味して、諦めがつけばそのまま暫しの、或いは永遠のお別れ。諦められなければ……清水の舞台から飛び降りる覚悟でレジへ運ぶ。学生時代は古本屋の街で過ごしたので、安価で良書がずいぶんと買えたものだが、内情は変わらない。使える金額が少なければ少ないだけに、……。
 社会人になってどれだけの歳月が流れたことやら知れぬ。今日に至るまでの間、なにを得て、なにを失くしたか、倩考え始めればキリがない。
 が、これだけは確実にいえる──お給料をもらうようになって、単行本を買うことに憂いがなくなった、と。むろん、購入するかどうかの迷いは未だにあるけれど、躊躇することは格段に減ったように思う。衝動買いが増えたとは単行本に関しては思わないが、欲しい、と思ったときに運良くお財布にお札が数枚入っていれば、よし、と内心頷いてレジへ直行できるのは幸せだ。時には序でに何冊かの文庫や単行本も物色したりしてね。
 大人になると単行本の購入が増えるのは自分に限ったことではないし、大人になって単行本の購入に躊躇いがなくなってくるのは勿論可処分所得が増えたことに理由がある。が、ここにもう1つ、わたくしなりに理由を付け加えれば、文庫本にならずに消えてゆく単行本のなかにどれだけ自分好みのものがあるか、そのなかにどれだけ自分が必要としているものがあることか、という事実に気が付いてしまったせいもある。
 小説の場合、時代小説で文庫本化されていない名作は幾らでもあるよ。わたくしは江戸時代の文芸に携わった人々の小説を読むのが好きなのだけれど、一部有名作家の作物を除けば結局単行本のお世話になるより他ない。人文科学の本に至っては逆に文庫で読めるものがどれだけあることやら。
 とまれ、わたくしは今日も今日とて読みたい本を探しに書店へ出向き、読みたい単行本があれば内容吟味の上、レジへ運んで、その後に訪れる一時の読書の桃源郷を愉しむのである。◆

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