第2216日目 〈「フィリピの信徒への手紙」前夜〉 [フィリピの信徒への手紙]

 パウロ書簡を読み始めてから、以前に増して伝ルカ著「使徒言行録」をしばしば繙くようになりました。ここの書簡がいつ、どこで、どのような背景あって書かれたものなのか、手掛かりは「使徒言行録」に埋めこまれている場合が多々である、と申して過言でありません。ほんとう、「ロマ書」以来果たして何度、「使徒行伝」に戻ってページをめくり、該当箇所を前にして考えこんだことでしょうか。
 今日から読むフィリピも、「使徒言行録」に記された第2回宣教旅行の途次立ち寄ったフィリピ訪問の記事が出発点となっています。パウロは小アジアでの宣教をひとまず済ませると、今度は随伴者たちと共に海を渡り、マケドニアの地を踏み、遂に西洋古典文明の牙城でキリストの福音を宣べ伝えるのであります。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ16:15)
 パウロとフィリピのかかわりは使16:12に始まる。シラスとテモテを伴って小アジアはトロアスの町から海路、サモトラケ島を経てネアポリスの港でマケドニアへ上陸。そのままマケドニア州第一区の都市にしてローマ帝国の植民都市、フィリピへ入ったのであります。そこでかれはリディアという女性を回心させ、ギリシア初のキリスト者とした。別の日には川岸の祈りの場所へ出掛ける途中、女奴隷に憑いた霊を追い払った。これが原因でパウロとシラスは投獄されたが、ローマ市民権を持つ者ゆえに釈放された。──「使徒言行録」が記録するパウロとフィリピの町のかかわりであります。これが縁となってパウロはこの地に西洋初の教会を設立(50年頃)、その信徒の多くは異邦人でありました。
 本書簡の筆が執られたきっかけは、フィリピ教会にユダヤ主義者が入りこんで割礼を強要したことにあった。この割礼を強要するユダヤ主義者が「ガラテヤ書」のときのようなユダヤ人キリスト者と同じ主張をしたのか定かでありません。単に割礼を強いてユダヤ教に回心させようとしたのか、真にキリスト者となるには割礼しなくてはならないと誤った教えを説いたのか、判然としません。ユダヤ主義者であるならば前者の可能性が高くなるのかな、と思うが精一杯で。ただ、かれらの登場によってフィリピ教会が動揺、混乱したのはたしかなのでしょう。パウロはこれを知って、信徒の動揺や混乱、迷いを鎮めるために本書簡の筆を執った──そう考えるのが自然であるように思います。そのユダヤ主義者たちはフィリ3:2にて「あの犬ども」と罵っております。
 「エフェソ書」同様〈獄中書簡〉を構成する1つである本書簡は、やはり同じように58-60年頃、シリアのカイサリアにて書かれた、と思しい。その内容は大きく2つに大別でき、1つはフィリ2:6-11に於けるイエス・キリストの受難と栄誉を讃える部分、もう1つはフィリ3:8-11に於けるパウロの義認(義化)論の部分である。本書簡は<喜びの手紙>または<感謝の手紙>と呼ばれ、それは専らフィリピからシリアのカイサリアへ援助物資である贈り物を携えてきたエパフロディトと、斯様に厚意を示してくれ、かつ自分のために祈ってくれもするフィリピ教会への感謝と喜びに由来するようだが、わたくしは同時にキリストへの感謝、喜び、信頼、畏敬といった想いに彩られた手紙であるがための呼称であるとも思うのであります。
 上記に関して、ヴァルター・クライバーはこう述べています、「手紙全体を通して注意を引くのは、パウロが実に親密に語り、実に心を込めて教会への勧めをなしている点である。この点において、パウロとこの教会との特別な関係が明らかになる」(『聖書ガイドブック』P248 教文館 2000.9)と。至極もっともな指摘といえましょう。
 それではフィリピとはどのような町であったのか。最後はその点に触れておきましょう。
 「使徒言行録」でこの町がどう紹介されているのかは、前に述べました。フィリピの町の起源は前358-6年頃、マケドニア王フィリポス2世によって整備されて復興した。それ以前はクレニデスと呼ばれて廃都に等しかった由。フィリポス2世はアレクサンドロス3世ことアレクサンドロス(アレクサンダー)大王の父王であります。
 その後、世界の覇権は共和政ローマに移り、前42年9月、ローマにとってもフィリピの町にとってもターニング・ポイントとなる出来事が起こりました──共和主義者のブルータス=カシウス連合軍と第2回三頭政治により手を結んだアントニウス=オクタヴィアヌス連合軍がこの地で武力衝突したのであります。結果はアントニウス=オクタヴィアヌス連合軍の大勝利。この戦いは事実上共和政ローマの終焉を知らせると同時に、時代の流れが帝政ローマ誕生へ舵を切った瞬間でした。やがてこの地はオクタヴィアヌスこと初代ローマ皇帝アウグスティヌスによってローマ帝国へ併合され、属州として生きることとなったのです。『ローマの歴史』(中公文庫)の著者、インドロ・モルタネリはこのフィリピの戦いを指して、「共和政とその良心はともにフィリピで滅んだ」と慨嘆しております(P306)。
 なお、フィリピの町は帝都ローマからトラキア州ビザンティウムへ至るエグナティア街道の途中に位置しておりました。この街道は他のローマ街道と同じく軍事上、商業上の主要幹線であり、パウロがギリシア本土に於ける宣教活動の第一歩にここを選んだことは、かれなりの戦略あってのことだったのでありましょう。福音書や「使徒言行録」、各書簡の背景を繙くことは自ずとかの時代の様々な出来事を知ることであります。シリア・パレスティナ、地中海世界──就中ギリシアや共和制/帝政ローマの歴史を聖書読書と併せて知ることの愉しみは、なににも代え難い知的快楽、知的道楽と申せましょう。もとより歴史のアマチュアの手慰みであるのは承知のことです。
 蛇足ではありますが、ビザンティウムはローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルとして生まれ変わり(330年)、395年にローマ帝国が東西に分裂後は東ローマ帝国の帝都として繁栄し、1453年に帝国が滅亡するとオスマン帝国の首都となりイスタンブールに改称されました。そうしてここはオリエント急行の始発/終着駅……名探偵ポアロはイスタンブールでの事件解決後、オリエント急行に乗車してあの事件に巻きこまれたのでありました。
 それでは明日から1日1章の原則で「フィリピの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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