第2217日目 〈フィリピの信徒への手紙第1章:〈挨拶〉、〈フィリピの信徒のための祈り〉他withよく聴くビートルズ・アルバムはといえば、……〉 [フィリピの信徒への手紙]

 フィリピの信徒への手紙第1章です。

 フィリ1:1-2〈挨拶〉
 キリストの使徒パウロとテモテから、フィリピの町の聖なる者たち、監督者、奉仕者たちへ。父なる神と主キリストの恵みと平和がありますように。

 フィリ1:3-11〈フィリピの信徒のための祈り〉
 あなたのなかで善い業を始めた方がキリスト・イエスの日の訪れまでにその業を成し遂げてくれる、わたしはそう確信しています。というのも、このように監禁されている間も、福音を弁明して立証するときも、あなた方一同のことをともに恵みに与る者と思い、心に留めているからであります。
 「わたしが、キリスト・イエスの愛の力で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(フィリ1:8)
 どうかあなた方が知る力と見抜く力を併せ持ち、愛がますます豊かになり、本当に重要なことがあふれるぐらいに受け取れ、神の栄光と誉れを受け取られますように。
 ──わたしはそう祈ります、あなた方のために。

 フィリ1:12-30〈わたしにとって、生きるとはキリストを生きること〉
 フィリピの兄弟たちよ、わたしはいま、獄中の身。が、嘆くなかれ。これは福音の前進のために役立つ出来事となるだろうから。わたしが囚われている理由がキリストのためであることが、この監獄のある兵営に詰める人々、その他のここで暮らす人々に知れ渡り、捕らわれたわたしを見て主の兄弟たちの多くの者が確信を得て、ますます勇敢に、恐れることなく、御言葉を語るようになったのです。
 が、キリストを宣べ伝えることは必ずしも純粋な動機によるものばかりではありません。種々の不純な動機に起因する場合もあるでしょう。が、だからどうしたというのです。わたしは──動機はともあれ──キリストの福音が多くの人々によって語られ、広められてゆくのを喜んでいます。わたしはどんなことにも恥をかかず、生きるにしても死ぬにしても、わが身によってキリストが公然と崇められる時が来るように、と、切に願い希望しています。
 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリ1:21)
 わたしはこの世を去ってキリストと共に在ることを熱望している。正直なところ、肉に留まるよりはその方がずっと望ましいのです。が、しかし、わたしはこのまま生きることでしょう。わたしはあなた方にとって必要な存在です。あなた方の信仰を深め、喜びをもたらすが如く、いつも共にいることになるでしょう。あなた方の前にわたしが再び姿を現すとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなた方の誇りは、わたしゆえにいや増しにますことでしょう。
 フィリピの兄弟たちよ。ひたすらキリストの福音に相応しい生活をしなさい。そうすればわたしはあなた方について、会ったときでも離れているときでも、きっとこのようなことが聞けるでしょう。曰く、──
 「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」(フィリ1:27-28)
 おわかりになるでしょうか、あなた方はキリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのだ、ということを。あなた方はわたしの戦いを見て、聞いています。あなた方も、いまわたしが経験しているのと同じ戦いを戦っているのです。

 本章を読んでいていちばん驚かされたのは、御言葉を語るにあたってはその動機が純粋なものであろうと不純なものであろうとどちらでも構わない、というパウロの一言。心からの思いあってこそ人は動き、また動かされるのではないか。そう小首を傾げたくなるのであります。
 が、パウロにいわせれば勿論そうではない。これはおそらく、最初のきっかけはかりに利益を求めたり、獄中のパウロを苦しめんがためのことであったとしても、御言葉を語るにつれてだんだんと御言葉それ自身が話者に作用して不純な動機で語り始めたかれを改悛させることだろう、という、それが内包する力、人に及ぼす力に信頼を置いて斯く言い放ったのかも知れません。或いはも少し単純に、不純な動機で語り始めた人は御言葉によって自滅することだろう、とわかっているからこその発言であったか。結局それは(フィリ3:18-19で書かれたように)十字架に敵対している者たちなのだから、やがては滅びてしまうだろうね、と……。
 どちらであるにせよ、どちらでもないにせよ、すくなくとも「フィリピの信徒への手紙」を読み始めたばかりの現時点では、パウロの真意が奈辺にあるか定かでありません。
 読みが浅いせいか、殊に過半を占める〈わたしにとって、生きるとはキリストを生きること〉は難渋してしまいました。こんなことでどうするのか。以前ぐらいに時間と体力があって、集中力を持続させられ、<灰色の脳細胞>が活発に動いてくれればなぁ。そうしたら、リカバリできる? と秘書。勿論、とわたくし。嗚呼、というべきか、呵々というて〆括るべきか。



 ビートルズのアルバムでいちばん聴いているのは、実は『イエロー・サブマリン 〜ソングトラックス〜』であったりする。オリジナル盤からジョージ・マーティン(2016年3月8日90歳にて逝去、合掌)作曲のオーケストラ曲を除いて、映画『イエロー・サブマリン』に使用されたビートルズの歌だけで構成した一種の企画盤であるけれど、これがなんともいえない法悦をもたらしてくれるのだ。これはこれでじゅうぶんにアリだ。或る意味で入門盤としてオススメできるかも。
 これに次いでよく聴いているアルバムは『パストマスターズ』Vol-1とVol-2かな。オリジナル・アルバムが出て来ないのがいやはやなんともなのだが、そちらはほぼまんべんなく聴いているからどれがいちばん聴いている、という比較ができないのだね。
 でも、自分が今回のビートルズ洗礼以前に聴いていたかれらの歌は、アルバム収録のヴァージョンというよりも『パストマスターズ』に収められたヴァージョンのような気がしてならぬのは、果たして気のせいだろうか。もとより確認する術は最早ないけれど、そんな風に耳が記憶しているのである。ふむぅ。◆

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