第2219日目 〈フィリピの信徒への手紙第3章&第4章1/2:〈キリストを信じるとは〉&〈目標を目指して〉〉 [フィリピの信徒への手紙]

 フィリピの信徒への手紙第3章と第4章1/2です。

 フィリ3:1-11〈キリストを信じるとは〉
 あなた方のなかに動揺と困惑をもたらしたあのユダヤ主義者たち、あの犬どもに注意しなさい。あの邪な働き手たちに注意しなさい。切り傷に過ぎない割礼を持つ者たちを軽快しなさい。われらこそ神の霊によって真の割礼を受けた者なのですから。
 わたしは生まれて8日目に割礼を受けた、イスラエルに属するベニヤミン族の出身です。わたしはヘブライ人のなかのヘブライ人。律法に関してはファリサイ派の一員で、熱心さについては教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした。
 わたしにとってこれらは有利なことでした。しかし、いまは却ってキリストゆえに損失と見做しています。のみならず、主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさによって、いまでは他の一切を損失と見るようになりました。いまやそれらは塵芥でしかありません。
 「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ3:9)
 キリストとその復活の力を知ったわたしは、その苦しみに与り、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者のなかからの復活を果たしたいのです。

 フィリ3:12-4:1〈目標を目指して〉
 わたしは自分が欲しいと願うものはまだ得ていませんし、完全な者となっているわけでもありません。どうにかしてそれを得ようと(捕まえようと)努めているところです。というのも、自分はまだイエス・キリストに捕らわれている者だからであります。
 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリ3:13-14)
 わたしは以上のような目標を目指して達することができるよう、努めます。あなた方のなかには異なる目標や考えのある人もいるでしょう。いずれにせよ、われらは到達したところに基づいて進むべきなのです。
 あなた方はわたしに倣う者となりなさい。われらを模範として歩む人々へ目を向けなさい。いま再た涙ながらにいいますが、キリストの十字架に敵対する輩は未だ多いのです。かれらの行き着く先にあるのは、滅びです。かれらの神は腹、誇りとするのは恥ずべき諸事、かれらの考えることはこの世のことばかりです。
 しかし、われらは違う。われらの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが来て、われらを救うのです。われらはそれを待っているのです。万物を支配下に置くことのできる力を、キリストは持っています。その力によってわれらは、この卑しい体からキリストと同じ栄光があふれる体へと変えられるのです。
 「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(フィリ4:1)

 パウロはキリストによって死者のなかからの復活を果たしたい、と望む。ここでいう復活は、肉体が滅びたあと訪れる<死>からのそれではなく、回心を経て新たにキリスト者として新生する、という意味合いであるように、わたくしは思います。律法への義に縛られていた過去の自分からの脱却、キリストへの信仰による義に基づく新たな自分に生まれ変わること、といえばいいでしょうか。それが延いては最終的な目標としてパウロが掲げた、天に召されて神やキリストと共にあることへとつながってゆくのでしょう。
 そのパウロは、信仰による義を基として神からの義に授かろうとする。その最終目標は、前述したように神からの賞与をもらうことでした。ではその賞与はなにか、といえば、上(天)に召されて神や主キリストと共に在る、というものです。そうした最終目標を目指して活動する自らの様子を「走る」という行為に喩えたのが、引用したフィリ3:13-14であります。
 この箇所は誰もが──すくなくとも向上心を持ち、人生になんらかの目標を掲げる人ならば、誰しも首肯・共感できるのではないでしょうか。後ろのものを忘れて前を見て、ひたすらに目標目指して走る。実に励みとなる文言ではありませんか。◆

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