第2227日目 〈「コロサイの信徒への手紙」前夜〉 [コロサイの信徒への手紙]

 パウロ書簡はパウロが設立に携わった教会に宛てて書かれていることが多いですけれど、異なる場合だってあります。「ロマ書」など最たるものですが、今回読む「コロサイの信徒への手紙」もその例外に属する手紙であります。パウロがその生涯を通して、本当にただの一度もコロサイを訪れなかったのか、書かれていない事実があることへ思いを馳せれば解答に窮す。絞り出せる解は精々が、すくなくとも「使徒言行録」にその記録はない、というぐらい。まぁ、フリキア州は通過した旨記述がありますから、そのときに訪問した可能性は十二分にありますけれどね。
 しかしコロサイ教会がパウロ以外の人物によって設立されたのは事実のよう。では誰によって? その者の名はエパフラス、コロサイ出身のキリスト者であります。かれの名は手紙に2度載る、コロ1:7と同4:11とに。第4章の記述から判断するに、手紙が書かれたときエパフラスはコロサイにはおらず、監禁中のパウロの傍にいた。もしかするとかれがパウロの許へ、コロサイ教会が直面している<誤った教え>のあることを伝えたのかもしれません。手紙を携えてコロサイへ戻ったかは不明ですが、かれが本書簡に関与していることを否定する必要はないでしょう。またエパフラスはコロサイ周辺の町、ラオディキアとヒエラポリスにも教会を建て、一帯のキリスト信仰の中枢を担った──つまり、牧者として活動していたようであります。
 これまでに読んだ2つの〈獄中書簡〉については執筆された場所と年代について、シリアのアンティオキアにて58-60年頃と推測していました。が、本書簡と次の「フィレモンへの手紙」については少々事情が違うようです。
 「コロサイの信徒への手紙」と「フィレモンへの手紙」の記述を検証すると、両書簡の執筆地はエフェソであり、時期はほぼ同じうして推定53-55年頃、即ちパウロがその地に3年間滞在していた時分という。また、両書簡に共通して名の挙げられる人物の多さが、2つの手紙が時期をほぼ同じうして書かれた根拠の一つとなる由。エパフラスは勿論、フィレモンの奴隷であったオネシモ、エフェソのアルテミス神殿の騒動に巻きこまれたアリスタルコ、「マルコによる福音書」の著者とされるマルコ(バルナバの従兄弟)、「ルカによる福音書」と「使徒言行録」の著者とされる医者ルカ、などであります。
 一方で「コロサイの信徒への手紙」はパウロの死後、「以前コロサイの町があったフリキア地方のキリスト者の間で広まりつつあった誤った教えを論破するために、パウロの名を使い、彼の神学を基礎とし、それを発展させた」(フランシスコ会訳新約聖書 P546)手紙である、とも考えられているそうであります。その人物はパウロ神学を深く、正しく理解しており、またそれを基にして<誤った教え>を論破できるだけの説得力を持った手紙を書くだけの文才と論理的思考を身に付けていた人物、ということにもなりましょう。とはいえ、本ブログではこの点については触れずに済ますつもりであります。なぜかといえば、それについて様々考えるのは本ブログの役目ではないからであります。
 では、その<誤った教え>とはなにか──当時、コロサイの信徒たちの間には幾分誤った教えが流布していた。これをヴァルター・クライバーは、この世を支配する天使の諸力の行為を得なくてはかれらの更に上位にあるキリストへ至る道を見出せないのだ、といい(『聖書ガイドブック』P248 教文館)、フランシスコ会訳の解説では、「コロサイの信徒への手紙」が触れる異端とはキリスト教的グノーシス主義の前身にあたる、紀元前からあって1世紀後半には広範な地域に浸透していた原グノーシス主義であろう、と述べる(P546)。このグノーシス主義はいつかエッセイで触れようと思い、文献に目を通したりしているのですが、未だ浅学なわたくしにはまだ歯が立たぬ代物ゆえ、機を得てきちんとお披露目しておきたく考えております。まだまだ勉強中……。
 それでは明日から1日1章の原則で、「コロサイの信徒への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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