第2234日目 〈フィレモンへの手紙:〈フィレモンの愛と信仰〉、〈パウロ、オネシモのために執り成す〉他with「フィレモン書」読了の挨拶〉 [フィレモンへの手紙]

 フィレモンへの手紙です。

 フィレ1-3〈挨拶〉
 キリスト・イエスに囚われたパウロとテモテから、協力者フィレモンへ、姉妹アフィアと戦友アルキポへ、あなたの家の教会へ。神と主キリストの恵みと平和があなた方へありますように。

 フィレ4-7〈フィレモンの愛と信仰〉
 フィレモンよ、わたしは祈りの度にあなたを思い起こします。というのも、主に対するあなたの信仰と聖なる者たちへ寄せるあなたの愛を、知っているからです。
 われらの間でキリストに対して行われている善きことをあなたが知り、それによってあなたの信仰の交わりがいっそう活発になることを期待します。
 「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。」(フィレ7)

 フィレ8-22〈パウロ、オネシモのために執り成す〉
 フィレモンよ、あなたの愛に訴えてお願いしたいことがあります。
 わたしはこちらで1人の奴隷を回心させました。名前はオネシモ。ご存知でしょう。かれはあなたにとっては役不足、取るに足らぬ者でした。が、いまは違います。キリストの恵みに与るようになったオネシモは、わたしを手伝えるぐらいの人物となったのです。
 本当ならこのままここにいて手伝ってもらいたいのですが、あなたにお返しします。この手紙を携えて帰るオネシモを、どうぞあなたの愛を以て迎え入れてください。かれは1人の人間として、主を信じる者として、あなたの愛する兄弟であるはず。
 「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。」(フィレ15-16)
 どうかかれをわたしと思うて迎え入れてください。かれがもしあなたに対して負債を負っていたり、なんらかの損害を与えているのなら、どうかその請求はわたしに回してほしい。わたしはこの手紙を自分で書いています。だからこの依頼も信用してくれて構わないのです。
 ここでわたしがお願いしたことをあなたは聞き入れて、叶えてくださると信じています。おそらくあなたはわたしが望む以上のことをしてくれるでしょう。
 序でに申せば、わたしは近日中に釈放されそうなので、そうしたらあなたのところへ行きます。いつ訪問しても大丈夫なように準備しておいてください。あなたの祈りによってそちらへ行くことができるよう希望しているのですよ、わたしは。

 フィレ23-25〈結びの言葉〉
 キリスト・イエスゆえわたしと一緒に投獄されているエパフラスが、またわが協力者であるアリスタルコとデマス、マルコとルカが、あなたにどうぞ宜しくといっています。
 どうか主キリスト・イエスの恵みがあなたの霊と共にありますように。

 執り成しを依頼する手紙のなかに、ずいぶんと浮いた話題が一つ。しかもそれはあくまで「ついで」として俎上に。どうやらパウロはこの手紙の筆を執った頃、自分の釈放の可能性を見出していたようであります。それを示唆する具体的な話があったのか、或いは願望に留まる噂や予感の域を出ぬものであったのか。定かではありません。が、そこに信憑性のある裏附けがなければ、「わたしのため宿泊の用意を頼みます」(フィレ22)なんて台詞は出てこないと思うのですよね……。
 本書簡に登場する人物の過半は既に「コロサイの信徒への手紙」を始め、「使徒言行録」、「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」の前夜などで(すくなくとも名前だけは)紹介済み。今回が初出となるのは宛先のフィレモンと、姉妹アフィア(フィレ2)だけであります。



 〈獄中書簡〉をまず終わらせるため、順番は前後しましたが「フィレモンへの手紙」読了であります。〈前夜〉にも書いたことでありますが、わたくしはこれを読んで「安寧」としかいいようのない気持ちを抱きました。根本にあるのは、ああ良いなぁ、という感情、一読心を洗われたようなそれなのです。
 こうしたシンプルかつストレートな手紙が〈パウロ書簡〉の最後に置かれたことは──たとえ分量偏重の結果だとしても──とても意義のあることと思います。また、他にも単一章から成るパウロ書簡はあったでしょうに本書簡だけが新約聖書に〈パウロ書簡〉の1つとして収められた点を感慨深く思うところなのであります。
 次は前に戻って2つの「テサロニケの信徒への手紙」、3つの〈牧会書簡〉と進んで〈パウロ書簡〉の読了となる。今後、特にわたくしが怠惰に流されて何ヶ月も書かない日が続いたりしない限り、予定通り今秋のうちに新約聖書全巻並びに聖書の読書も終わることでしょう。わたくしの病気がこのあとどれだけ進行したとしても、この予定だけは違えることなく完遂するつもりであります。ご安心あれ。そのときの訪れまで、読者諸兄よ、わたくしはあなたを恃みとする。
 それでは、「テサロニケの信徒への手紙 一」前夜で再会しよう。◆

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。