第2243日目 〈「テサロニケの信徒への手紙 一」前夜withスタバにいたから午前様。〉 [テサロニケの信徒への手紙 一]

 「(パウロはテサロニケ到着後、ユダヤ人の会堂へ行き、)三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」(使17:2-4)
 シラスとテモテを随伴者とする第2回宣教旅行の途次、パウロはテサロニケへ立ち寄りました。ここを離れたあとに書き送られた手紙が「テサロニケの信徒への手紙 一」であります。
 本書簡は<パウロ書簡>のうちでも最初期に書かれたと目され、パウロ真筆を疑われない手紙の一つという。執筆時期はおそらく第2回宣教旅行の終盤、その場所はコリントである可能性が高い。宣教旅行は48-52年と推定され、コリントはその終盤に差しかかった頃に滞在した町。パウロはテサロニケの次に行った町ベレアを去る際、宣教が不十分であるのを思うて随伴者シラスとテモテをそこに残した(使17:14)が、かれらはコリントでパウロと合流した(使18:5)。その折の喜びをパウロは本書簡を綴る際、曰く、「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰ってきて、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせをもたらしてくれました」(一テサ3:6)と。執筆場所はコリント、年代はコリント滞在時期とされる50-52年頃だろう、と考えるのが無難な様子であります。
 パウロは本書簡で──全5章の短い手紙でなにを、テサロニケ教会の信徒たちへ語らんとしたのでしょう。実はこの点、「フィレモンへの手紙」によく似ています。つまり教会内で起きた諸問題について論じるのではなく、もっと根本的なこと、即ちキリストへの信仰に深く帰依するかれらを喜びとし、感謝し、励ました手紙なのであります。これまで読んだ手紙の大半(たとえば「ローマの信徒への手紙」や「ガラテヤの信徒への手紙」など)は非キリスト者にしてみれば、その情熱の奔流に呑まれて辟易するところもあったのですが、対して本書簡は文章は平易、趣旨は明快なる点がこれまでに読んだ手紙とは明らかに異なり、読んでいてよくわかるという喜びを抱くものであります。まあ、それゆえにやや一本調子の罠に陥ったところはありますが、それについては視界の外に置くと致しましょう。
 パウロは第2回宣教旅行でテサロニケを訪れた際、この地に教会を建てました。ローマ帝国属州マケドニアのテサロニケは当時よりして既に規模の大きな通商と軍事の要衝でありましたが、それは時代を遥かに下った今日に於いても変わりなく、ギリシア第2の都市テッサロニキとして往時の繁栄そのままに在り続けております。
 テサロニケの町はアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)の死後に勃発したディアドコイ戦争(前323-281年)の最中、アンティパトロス朝マケドニアの初代王カッサンドロスによって創建された、と伝えられます(伝前315年頃)。その後、マケドニア地域の支配者は共和政ローマから帝政ローマに、帝国分裂してからは東ローマ帝国、オスマン帝国に移り変わってゆきましたが、いずれの時代にあってもその版図のなかでテサロニケは相応の存在感を示したようであります。
 パウロがテサロニケに教会を建てた意義は頗る重要で、帝都ローマとビザンティウムを結ぶエグナティア街道に面したこの町が真の意味での拠点となって、世界の西側へキリストの福音が流れこんでいったのであります。
 それでは明日から1日1章の原則で、「テサロニケの信徒への手紙 一」を読んでゆきましょう。



 深夜まで営業している職場近くのスターバックスにいます。ついつい長居してしまうのが頭痛のタネなこの店舗、いつも通っている店舗は22時までの営業なのに対して、ここは午前2時が閉店。ゆえ普段以上に原稿を書くための時間を費やしてしまったり、なんとなく本を読んで過ごしてしまうのですね。
 じゅうぶん予想され、大概その通りになる顛末として終電に間に合わなくなり、自宅まで小一時間をかけて徒歩で帰宅する始末です。従って翌日が仕事のときは睡眠不足(自業自得!)で出勤、業務に就くことになる。あまり良い結果を生まないことは重々承知なのだが、それでも原稿書きに最適な環境が整ったこのスタバへ立ち寄ってしまうのだ。
 でも、殆ど時間を気にしないでじっくりと物が書ける場所が家の他にあるというのは、或る意味で自分がとても恵まれた環境にいることの裏返しでもありましょう。いつまでもここにいられればいいのになぁ……。◆

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