第2247日目 〈「テサロニケの信徒への手紙 二」前夜withバーンスタインのマーラーを聴いています。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 執筆の時期、場所について「テサロニケの信徒への手紙 二」は「一テサ」とほぼ変わるところはない、というのが一般的なようであります。「一テサ」を書いてから/送ってから数ヶ月後に新たにテサロニケ教会の人々のために筆を執ったのが今回読む「二テサ」、即ち「一テサ」同様50-52年頃、コリントにて書かれた、とされる。一説にパウロ没後、その名を借りて書かれた手紙の一つともいわれますが、定かではありません。本ブログではこちらもパウロ真筆として扱います。疑う理由と根拠が、こちらにないからであります。
 パウロはどうやら「一テサ」を送ったあと、風聞か人伝かわかりませんが、テサロニケの信徒たちを惑わす出来事のあるのを知った様子。その出来事というのは2つに分けられるようでありまして、1つは同地の人々がイエスの再臨は既にされてしまっていて、自分たちはそれにあずかることができなかった、という落胆。もう1つはパウロの教えを否定する、むしろ怠惰な生活を奨める人物が現れてテサロニケの人々を動揺させていたこと。これらの出来事に触れてパウロは必要を感じ、2通目の手紙を書くに至ったのでありました。
 が、1番目の出来事──再臨は既にされている、とテサロニケの人々が考えてしまったのも宜なるかな、と思うのです。福音書や「使徒言行録」を読みますと、十字架上で死んだイエスの再臨──主の日はそれ程遠くない頃に訪れて実現する、と考えられていた節が窺える。が、イエスの死から20年以上の歳月が経過していた1世紀中葉、待てど暮らせど一向にその日が訪れる様子は見られぬ。となれば、人々の考えることは自ずと限られてくる。①再臨はもうされてしまった(=見逃した/わからなかった)、②その日は来ないかもしれない(=不安、戸惑い、不審)、のいずれかとなりましょう。前者が「二テサ」当時のテサロニケの信徒たちの心境を映した嘆きであり、そうして後者の種々の思いが出発点となり、来たるべき日に供えて新約聖書が編纂されたのであります。
 全3章47節、わたくしの使う新共同訳では実質2ページで済む、という短さが暗に示すように、本書簡は話題を絞り、その要点だけを綴った、まあ手紙というより指示書というた方が良いやもしれぬ代物であります。別のいい方をすれば「テサロニケの信徒への手紙 二」は一気呵成に書かれたがゆえ要点だけが記される結果となったのでしょう。だからこそ、わたくしのような非キリスト者も読書中、成る程、と首肯しながら、或いはその内容を咀嚼しながら、理解しながら、読んで腑に落ちるところが幾つもあるわけです。
 それでは明日から1日1章の原則で「テサロニケの信徒への手紙 二」を読んでゆきましょう。



 昨日騒いだヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース『The Oregon Report』ですが、『Hip to be Square…Live』以外にも同じ放送音源からCD化されたものが最低2種類は出ているようであります。今日昼、県立図書館への長い坂道をのぼったところで一服しながらGoogleで調べていたら、検索結果を何ページも送ったあとにその情報が出ていました。そちらは1990年代前半のリリースである由。以上、補足。
 では、本題。
 県立図書館に出掛けた理由なのだけれど、別に本ブログのための下調べに行ったわけでは(今日は)ない。先月からレナード・バーンスタインがドイツ・グラモフォンに録音した、2度目のマーラー交響曲全集を借りて聴いているのです。第4番のCDだけがバラの状態では貸出棚にないのだけれど(所蔵されていない、という意味である)、幸い交響曲全集のボックスが別にあるので、こちらはあとで借りてくればよいのです。ひとまず今日借りた3曲を以て《角笛》交響曲はすべて聴き果せた。
 全集へ向けた録音は全9曲プラス《大地の歌》を完了する前にレニーの死により中断したそうですが、非道いことをいうようですが、数少ない自分の好きなマーラー交響曲はすべて再録音されていたので、その点は妥協することと致します。作曲家としてではなく曲単位で好きか否かを計る場合、このような感慨を抱いてしまうのは果たして惨い所業なのでしょうか。わたくしがいまよりずっと若かった時分、ショルティのLPでマーラーを聴き耽っていた頃にバーンスタインの全集も同じように聴き耽っていたら、上述のような感慨は生まれなかったかもしれないなぁ。
 借りてきたマーラー/バーンスタインのCDは2回程聴いた後、iTunesでiMacへ取り込んでiPhoneで聴けるようにします。イヤフォンではなくヘッドフォンの購入を検討している理由の半分はiPhoneでマーラーを聴くに備えての話であります。iPhone付属のイヤフォン、家電量販店などで売られるイヤフォンでマーラーを聴くのは、すくなくともわたくしには無理です。いたずらに耳を痛めるだけです。耳に負担をかけることなくマーラーが聴けるヘッドフォンを折に触れて探すのは、案外と労多くして実りなしの作業であります……。
 今一度レニー。かれのマーラーを聴こうとこの度思い立ったきっかけはCSのクラシカ・ジャパンで観た、たしかウィーン・フィル相手の交響曲第2番《復活》でありました。仕事帰りの午前様になったとき、明日は休みをいいことに夕食後、ビールを飲みながら録画したものを観ていたのですが、これがすっかり興奮させられる演奏でした。最後までまんじりともせず、食い入るように観て、聴きましたよ。
 それに刺激されて、バーンスタインのマーラーを聴いてみようかな、と思うた。興奮収まらぬ頃に出掛けた県立図書館にてDGの全集を見出したのが、今日に至るプチ・マーラー熱の直接の原因。──更に今回の遠因を辿れば年始、風邪に倒れて正月から臥せっていたときに聴いた、アバドとカラヤンがそれぞれベルリン・フィルを振った第9番にあるでしょうね。病床の身で第9番を聴くのもいったいどうなのか、というところでありますが、それはこの際不問で。
 バーンスタインのマーラーを聴いた感想を認めることはないだろうけれど、最前のヘッドフォンも含めて音楽の再生環境にようやく──あれから10年以上が経ってようやく思い巡らし、構築を検討できるようになったので、それらに関して短い文章を書くかもしれません。
 この出来事を端緒としてバーンスタインの残した録音等に手を伸ばし、10数年ぶりにマーラーの音楽をじっくり聴くことが増えるかもしれないなぁ。そんな予感がしている、春の今宵。◆

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