第2249日目 〈テサロニケの信徒への手紙・二第2章:〈不法の者についての警告〉&〈救いに選ばれた者の生き方〉with美辞麗句は並べない;お金を遣うということ。〉 [テサロニケの信徒への手紙 二]

 テサロニケの信徒への手紙・二第2章です。

 二テサ2:1-12〈不法の者についての警告〉
 兄弟たちよ、お願いがあります。霊や言葉によって、或いはわれらから送られた手紙によって、主の日は既に来てしまった、などと叫ぶ者がいたとしても、動揺して分別をなくすなどといった真似はしないでください。知らないうちに主の日が過ぎてしまっていることはありません。
 その日が来る前には必ず神に対する反逆が起こります。そうして不法の者即ち滅びの子が登場します。かれは神への、その権威への完全なる反逆者。神を嘲り、罵り、貶めるなど、あらゆる形で抗った挙げ句、神殿に坐りこんで己を神と自称する。
 いまはまだ、かれは不法の者にはなっていない。かれを抑えつける力が働いているからです。しかし、その計画は秘かにかれに近附き、蝕んでいます。定められた時が来れば抑えつけていた力は取り除かれて、不法の者即ち滅びの子が登場する。かれはサタンの働きによって現れ、ありとあらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な御業を披露し、同時にありとあらゆる不義を用いて滅びゆく人々を欺くことになります。
 が、不法の者は主イエスが吐く息で殺され、御姿の輝かしい光で滅ぼされます。「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからであります。」(二テサ2:10)
 そこで神はかれらに惑わす力を与え、偽りを信じるよう仕向けた。斯くして真理を信じず不義を喜んでいた者は皆裁かれるのです。

 二テサ2:13-17〈救いに選ばれた者の生き方〉
 主に愛された人々は、しかし救われます。われらがあなた方について神にいつも感謝するのは、あなたが救われるに足る人々だから、というだけではありません。あなた方を聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなた方の信仰とにより、神はあなたを救われるべき者の初穂として選んだからです。われらはこのことについて神へ感謝せずにはいられません。
 兄弟たちよ、しっかりと立って、われらが説教や手紙で宣べ伝えた教えを堅く守りなさい。
 「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。」(二テサ2:16-17)

 「二テサ」のテーマその①であります。主の日って実はもう来ちゃっているんだぜ。え、マジで!? まじまじ、大マジよ。そんなぁ……。当時、テサロニケの信徒たちの間に起こった動揺の端緒はこんなやり取りであったろう、と想像されます。
 これを伝え聞いたパウロは、いやいや、そうではないよ、とばかりに慌てて本書簡の筆を執って一気呵成に認めたのであろう──というのは〈前夜〉にて既に申しあげました。そんなデマを鵜呑みにしても仕方ない空気が、この時代のキリスト者の間に漂っていたらしいことも。
 パウロはそうしたデマに取り合うな、といいます。風評に惑わされるな、と。諫めるというよりも諭すというた方がより適切な調子で。後年の書簡のように一つ一つの説得に強烈かつ堅固な神学で裏打ちするようなものではなく、よりわかりやすく、より効果的な文章と表現を用いて。
 本章前半で示されたことを承けて綴られる、「しっかりと立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(テサロニケ2:15)のなんと晴れやかで、頼もしく、揺らぎなき信念に満ちた言葉でありましょう。テサロニケの信徒たちがこれを聞いて深く首肯し、喜びの声をあげる様子がわたくしには想像できるのであります……。



 もうすぐ月末、給料日。吟味したうえ買い控えている本を贖い、オンラインで注文済みのCDが届く時機の到来である。散財というなかれ。とはいえこの消費活動を、自分へのご褒美、だとか、自分への投資、などと眉唾めいた言葉で片附けはしない。そんな意図はまったくないからだ。稀に「自分へのご褒美」としてなにかしらの物を買うことはあるが、毎月そんなことをしていてはすべての買い物に於いて体のいい弁解にしかならないではないか。本質を見失うだけである。
 わたくしは心底読むのを欲す小説を選んで買い、本当に試聴したいCDをあれこれ悩んで選び注文したのだ。この消費活動のいったいどこに美辞麗句でごまかす余地があるというのだろう。取り敢えずここで述べた<今月のお買い物計画>の根底にあってそれを支える盤石な基盤は、純粋に「欲求」である。読みたい、観たい、聴きたい。たまたま可処分所得は多い今月だ、それらの購入に回せるお金が相応にあるならば、知的渇望を癒やすために費やすのは必然だろう。金銭は精神の自由、肉体の自由、時間の自由を保証する人生の杖の一つである。これを呵々する人はお金の怖さやありがたみを知らない人たちだと思う。
 可処分所得が多いなら、吟味や選別など鷹揚にしておいて、自らの琴線に触れたものを片っ端から買ってゆけばよいではないか。そんな声をあげる御仁もおられよう。正論のように聞こえて然に非ず、それはただの浪費だ。多いと自負できるからこそ、財布の紐は引き締めるのだ。自分の欲望には際限がなく、しかしそれを収める空間には限界がある。消費と浪費を取り違えてはならぬ。個人的消費は斯様に引き締めるけれど、それ以外は必要な場面で必要なお金を遣っているから、わたくしなりに日本経済の活性には、微力ながら貢献していると思うのだが。まぁ、今月に関しては、という限定句を冠しての話であるのは冒頭からきちんと読んでくださった読者ならおわりであろう。
 ──で、なんの本買うの? なんのCD買ったの? そんな質問が遠い山並みの向こうからかすかに聞こえてくる。が……教えてあげないよ、ジャン・バルジャン。◆

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