第2261日目 〈テモテへの手紙・二第2章&第3章1/2:〈適格者と認められた働き手〉、〈終わりの時の人々の有り様〉他withこのあと、なに読もうかな?〉 [テモテへの手紙・二]

 テモテへの手紙・二第2章と第3章1/2です。

 二テモ2:1-13〈キリスト・イエスの兵士として〉
 テモテよ、あなたはキリスト・イエスに於ける恵みによって強くなりなさい。多くの証人を前にして、わたしから聞いたことを他の人々へ伝えることのできる忠実な者たちへ委ねなさい。キリストの兵士となってわたしと共に多くのことについて忍びなさい。
 イエス・キリストを思い起こしなさい。わたしはこの人に由来する福音ゆえに現在、鎖につながれています。「しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」(二テモ2:9-10)

 二テモ2:14-26〈適格者と認められた働き手〉
 テモテよ、あなたは適格者──キリストの真実なる言葉を伝えるに相応しい者となりなさい。適格者と認められ、神の御前に立つ者、恥じるところなき働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるよう努めなさい。
 俗悪な無駄話を避けなさい。妄言を避けなさい。鵜呑みにするな、信じるな。それらは人の口から口へ連鎖し、際限なく広まってゆきます。残念ながら、ヒメナイとフィレトはそうした話を広めるのに熱心な連衆の1人でした。かれらは復活はもう果たされた、と触れて回り、或る人々の信仰を覆しています。
 「しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。」(二テモ2:19)
 わたしはこう奨めます。若い頃からの情欲を退け、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。諍いの原因になるような、愚かで無知蒙昧な議論を避けなさい。
 「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」(二テモ2:24-26)

 二テモ3:1-9〈終わりの時の人々の有り様〉
 ですがテモテよ、終焉の時が来たら人々は乱れます。自己中心的になり、利害第一に考え、善に背いて悪と結び、快楽に耽り、信心を装いながら実際は信心の力を否定する。努めてかれらのような輩を避けなさい。かれらは他人の家に入りこみ、愚かで罪に満ちた女どもとつながり淫行に走る。
 このような連衆はけっして真理の認識に辿り着くことができないでしょう。かつてモーセに逆らったヤンネとヤンブレがよい例です。「彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。」(二テモ3:8)
 が、こうしたことが今後蔓延ることはないでしょう。ヤンネとヤンブレがそうであったように、多くの人々の前でかれらの無知が暴露される(白日の下に曝される)からです。

 精神の腐った人間で、信仰の失格者というのは、全地に住まう人間の過半を指す言葉であろうと感じられます。だからこそ、適格者として相応しい人物となってキリストの福音を、恥じることなく、怯むことなく伝えてゆけ、というのでありましょう。
 二テモ3:8にはモーセに逆らった者としてヤンネとヤンブレの名が出る。が、モーセ五書はおろか旧約聖書にかれらの名は出ません。一説では出7:11エジプト(ファラオ)の魔術師がこのヤンネ(騒ぐ)とヤンブレ(泡の癒やし手)であるといいます。

 本日の旧約聖書は二テモ2:19と民16:5。



 読書生活はただいま<有川浩祭り>絶賛開催中なのだが、これが終わったらどうしようか、と考えこんでいます。いま読んでいる『キャロリング』のあとは『植物図鑑』しかない用意がないものなぁ。しかも文庫版を入手したのを契機とした再読だし。次は誰の小説を読もうかな、と思案に暮れる、悩ましくも楽しい時期に差しかかっているのです。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの最後の短編集は勿論読むけど、それは別としてですよ、うん。
 さて……。現時点で確定しているのは、ド氏の『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』はしばらく読むのを控えよう、ということ。なんだか最近ド氏を読むとろくでもない出来事が出来するんだよね。双方に因果関係はないと思いたいが、それでも用心を期すにしくはない。
 作家読みの可能性があるならば、南木佳士と葉室麟ぐらいかな。実はこの2人、未読作が溜まっている好きな日本人作家の双璧なのである(なにやら矛盾した物言いだけれど)。他に誰がいるだろう。村上春樹の紀行とエッセイは読むものが一時的にもなくなったときのため取っておいてあるのだが、これらに手を着けるときがそろそろ近付いているとは、あまり思いたくないのだがなぁ。
 読もうと思うている小説はある。しかしそれらは作家買いしたものではなく、あくまで書店で何気なく手にしたら気に入ってしまった、いわば自分的単発作家だ。むろん、その1冊が新たな作家買いのきっかけになるかもしれないけれど、それはさておく。
 それともこれは、未読の太宰作品を消化していよいよスティーヴン・キングの世界へ帰還をせよ、という啓示なのかしらん。勿論、それはいちばん幸福な選択肢である。呵々。◆

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