第2274日目 〈「ヘブライ人への手紙」前夜〉 [ヘブライ人への手紙]

 かつて「ヘブライ人への手紙」はパウロ筆とされて〈パウロ書簡〉の1つに数えられていました。初期キリスト教ではそう信じられておりましたが、時代が下るにつれてその信憑性に疑が呈されるようになり、宗教改革の時代マルティン・ルターが「ヘブライ人への手紙」は〈パウロ書簡〉に非ずとの見解の下にドイツ語訳(ルター訳)聖書では、今日の聖書とは順番を違えて配列されております。本書簡が〈パウロ書簡〉でないことを示すため、わざわざ離れたところに配したのであります。ルターの考えに倣ったわけではないでしょうが、現在では本書簡をパウロ筆と考える向きは(どちらかといえば)少数派であるようです。
 そうなると、今度は、では著者は誰なのか、てふ議論と詮索が始まります。本書簡がパウロの神学と相似した点はあっても種々の面で食い違う様相を見せることから「ヘブライ人への手紙」を書いたのはパウロの教えを受け、その思想、その神学を継承した人物であろう、といわれております。著者の候補として挙げられるのは、バルナバやルカ、シラスなど、宣教旅行に同行した人物です。
 が、今日一般的に支持されているのは、使18:24-28,一コリ1-4に出るアレキサンドリア出身のユダヤ人キリスト者アポロを著者とする説(提唱者はルター)。なんでも「ヘブライ人への手紙」ギリシア語本文にはアレキサンドリア学派の影響が濃厚にある由。アポロはこのアレキサンドリア学派の修辞に精通していた、といいますから、かれを著者と仮定するのも宜なるかな、という思いが致します。フランシスコ会訳新約聖書に付された解説に拠れば、「本書の著者は非常に発展した高度のキリスト論を展開している」(P605)とのこと。著者をアポロと考えれば、フランシスコ会訳新約聖書に記された上述の文言は必然的帰結なのかもしれません。
 ヘブ13:24「イタリア出身の人たちがあなたがたによろしくと言っています」とあることから、本書簡の執筆場所は帝都ローマなどイタリア以外の国に属する町と考えるのが、単純ではあっても妥当であろう、と思います。アレキサンドリアやシリアのアンティオキア、エフェソなど、ローマを含めてむかしからいろいろ詮議、検証されてきた様子ですが、未だ定説はありません。他書簡と較べても手掛かりが足りないので結着はおろか、大勢を占めるような説もないのが現状のようであります。
 著者、執筆場所と来れば次はその年代となりましょう。ヘブ13:23にてテモテが釈放された、と報告されます。つまり、テモテは投獄の身であったわけです。既に読んだ「テモテへの手紙 二」では、パウロがテモテに、早くこちらへ来てください、と要請する一文がありました(二テモ4:9)。その「二テモ」はパウロ殉教の直前に書かれた。これらを綜合すれば67-69年頃に本書簡は執筆されたであろう、という仮の答えが導き出されます。おそらくはこの時代の執筆とするのがいちばん無難であるように思える次第です。
 もっとも本書簡の執筆年代は60年代後半から90年代と広く推測されており、こちらもまた一致を見ないのが現状であります。ローマのクレメンスが1世紀末に書いた手紙には本書簡からの引用がある、といいますし、また本書簡ではエルサレム神殿は健在で日々のいけにえがささげられている、と読み取れることのできる箇所のあることから、70年のエルサレム陥落以前に書かれている、と考えることも可能なわけです。すくなくとも、ヘンリー・H・ハーレイのように神殿が破壊された70年以後に「ヘブライ人への手紙」は書かれたと考えて間違いない(『新聖書ハンドブック』P854 いのちのことば社)、と断言することはできないでしょう。
 宛先となったのは在エルサレムのユダヤ人キリスト者なのか、或いは離散したユダヤ人キリスト者なのか、定かではない。しかし本書簡を読むと、キリスト者でありながらユダヤ教の祭儀に惹かれて信仰のぐらついている人々の姿が目の前に立ちあがります。本書簡の内容が、旧約と比較しての新約の優位を説くものとなっているのは、ユダヤ人キリスト者の信仰を堅固なものにせんがためと思えるのであります(ここでいう「旧約」と「新約」が、文字通り「旧い契約」、「新しい契約」を指すのはいうまでもありません)。まぁ、律法よりもキリストの福音ですよ、ということですね。
 かつて「ユダヤ教イエス派」と呼ばれたこともあったように、キリスト教はユダヤ教を母胎とします。本書簡はユダヤ教と比較することでキリスト教に於ける「信仰とはなんぞや」の問題を明らかにし、そうして贖い主としてのキリストが如何なる存在であるかを説明しております。
 本書簡に於ける主要なトピックとして、以下の3つが挙げられます、即ち、──
 ①キリストは完全なる大祭司であり、人々の罪を贖うためにただ一度、完全なる犠牲となって自分の命を天にささげた。
 ②キリストは死と復活によってすべての人々を神の御許に導く/招くための<道>を切り開いた。
 ③神の天使たち、旧約聖書に登場する指導者や預言者の誰よりも、キリストは偉大である。
──この3つを念頭に置いて、北極星と捉えて読み進めるならば、本書簡の読書は大きな心的負担となることはないでしょう。
 なお、本書簡は第8-10章にてキリストの贖罪論を、第11章にて旧約聖書に於ける信仰の模範を扱っていて、このあたりが読書の1つのヤマ場となりそうです。
 性質上、本書簡は旧約聖書からの引用を多く含みます。如何にキリストの福音に留まって信仰を揺るぎなき堅固なものとさせるかに腐心した結果といえるでしょう。本ブログではこれまで同様、当該日に該当箇所を都度挙げてゆく予定であります。
 私見でありますが、神学の高度にして濃やかなこと、文学としての次元の高さなど「ヘブライ人への手紙」は、〈パウロ書簡〉の代表的書簡である「ローマの信徒への手紙」と双璧をなすもののように思えます。幾ら今日ではパウロ筆と認められていないからと雖も、これが〈パウロ書簡〉と〈公同書簡〉の間に位置して1つの高峰として独自の存在感を示しているのは、なにやら象徴的であります。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブ11:1)
 それでは明日から1日1章の原則で、「ヘブライ人への手紙」を読んでゆきましょう。◆

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