第2275日目 〈ヘブライ人への手紙第1章&第2章1/2:〈神は御子によって語られた〉、〈御子は天使にまさる〉&〈大いなる救い〉with読んだ小説の感想は書かない。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第1章と第2章1/2です。

 ヘブ1:1-4〈神は御子によって語られた〉
 これまでにも神は多くの手段を講じてわれらに語りかけてきました。やがて<終わりの時代>が訪れ、すると神は御子を通じてわれらに語りかけたのであります。神はこの御子を万物の相続人として定め、御子により万物を、世界を創造しました。
 「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブ1:3)
 神によって御子は天使たちよりも優れた上位の者とされ、天使たちよりも優れた名を受け継ぐこととなったのです。

 ヘブ1:5:14〈御子は天使にまさる〉
 神は天使の誰にも、あなたはわたしの子、今日わたしはあなたを生んだ、とはいいませんでいした。それは御子に対してのみの言葉なのです。
 神はその長子、即ち御子をこの世へ──汚濁にまみれたこの世へ使わすとき、天使たちにこういいました。すべての天使はかれを礼拝せよ、と。
 そうして神は御自分の御子へ、斯く語りかけました。曰く、──
 「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。/あなたは義を愛し、不法を憎んだ。/それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、/あなたに注いだ。」(ヘブ1:8-9)
 神は天使の誰にも、わたしがあなたの敵を討ってあなたの足台とするまでわたしの右に着いていなさい、といったりはしませんでした。というのも、天使は皆奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるため、遣わされた存在なのです。ゆえに天使が御子を差し置いて神の右に立つことは、断じてありません。

 ヘブ2:1-4〈大いなる救い〉
 だから、われらは注意を払わねばなりません。神が御子を通じて使徒たちに語り、わたしを始めとしてわれらのすべてに伝えられて聞いたこと諸々に、注意しておく必要があるのです。さもないと、きっと不法や不従順といった神に背く行いの数々に、たやすく押し流されてしまうことでしょう。
 「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」(ヘブ2:2-3)
 この救いは主キリストから使徒たちに伝えられ、たしかなものとしてわれらに示されました。即ちそれが福音であります。更には神も御心に従って、ふしぎな業や様々な奇跡、聖霊の賜物を分け与え、証ししているのです。

 「ヨハネによる福音書」冒頭(ヨハ1:1-18)を想起させるほどの晦渋さでわたくしを困らせるヘブ1:1-4。厳めしさに腰が引けたわけではないのですが、どれだけ読み返してみても、なんだか難しいな、という印象を拭うことができずにいます。それだけに、わかった、と、漠然とではあっても手応えを感じたときは小さな喜びと自信になるのでありましょう。
 理解が困難な箇所は徹底的に難しく、逆に平易な箇所はなんの苦労もなく理解できる──それが本書簡を一度通読した際に抱いていまも変わらぬ、わたくしの正直な「ヘブライ人への手紙」感であります。
 ヘブ1:2「この終わりの時代」はキリスト出現の時を指す、とフランシスコ会訳の註釈は述べます。この表現は使2:17ペトロの説教のなかにもあり、救い主キリストが来臨してから終末に至るまでの時代を「終わりの時代」というのであります。なおこの期間は別に「教会の時代」とも呼ばれる由。

 本日の旧約聖書はヘブ1:3と詩110:1、ヘブ1:5aと詩2:7、ヘブ1:5bとサム下7:14、ヘブ1:6と申32:43(但ギリシア語70人訳)、ヘブ1:7と詩104:4(同)、ヘブ1:8-9と詩45:7-8、ヘブ1:10-12と詩102:26-28(同)、ヘブ1:13と詩110:1。



 お休み中の間は普段以上に小説を読んで過ごした記憶があります。そのなかでは特に米澤穂信『ボトルネック』と五木寛之『金沢あかり坂』がいちばん印象に残っているのですが、おそらくそれは旅先の地を舞台にした作品であったからでしょう。
 むろん、その前後にも普段よりも多く小説を読みました。タイトルや読了数を記す野暮は控えますが、国内作家ばかりで室生犀星を除けば現代小説が専らであった、とだけは自身への備忘として残しますが。
 でも、これらの感想が本ブログにて書かれることはないでしょう。「いつかそのうち書きましょう」と安請け合いすることはできますが、それが現実にはならないことをいまのわたくしはよく承知しております。ゆえに、戯れに感想めいた言葉が口の端からこぼれ落ちるのをわたくしとしても待つしかないのであります。それすらも実現されるのであろうか、と嗟嘆しつつ。
 しかし、岩波文庫で購い、復刻本で再読した犀星『性に目覚める頃』は感想を書いておきたいですね。『森崎書店の日々』の貴子ちゃんの台詞を拝借すれば、「なんていうか、グッときた」のであります。◆

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