第2277日目 〈ヘブライ人への手紙第3章&第4章1/2:〈イエスはモーセにまさる〉&〈神の民の安息〉withもしかして、本って家出する?〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第3章と第4章1/2です。

 ヘブ3:1-6〈イエスはモーセにまさる〉
 天の召しにあずかる聖なる兄弟たちよ、われらが信仰を公にする使者にして大祭司であるイエスを思いましょう。
 神の家の僕の筆頭としてモーセはありました。イエスは自分を立てた方即ち神に忠実でした。尊ばれるのは家それ自体ではなく、家を建てた人であります。為にイエスはモーセに優り、より大きな栄光を受けるに相応しいのです。神の家を建てたのはイスラエルの民ではなく、神自身なのですから。
 「さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(ヘブ3:5-6)

 ヘブ3:7-4:13〈神の民の安息〉
 或る詩篇に曰く、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。/荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。/だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。/『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』/そのため、わたしは怒って誓った。/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」(ヘブ3:7-11)と。
 あなた方のなかに信仰なき悪心を持つ者が現れぬよう、注意していなさい。あなた方の誰一人として罪に惑って頑なになる者がいないよう、励まし合いなさい。「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(ヘブ3:14)
 前述の詩篇の一節に、今日あなた方が神の声を聞くならば神に抗ったときのように心を頑なにするな、とありました。
 神の声を聞いたのに反抗した者とは誰だったか。──モーセを指導者として出エジプトを果たしたイスラエルの民であります。
 神は誰に対して40年間、憤り怒ったのか。──戒めに従うことなく罪を重ねて死骸で荒れ野を満たしたイスラエルの者らに対してであります。
 神は誰に対して自分の安息にあずからせない、といったのか。──自分に従わなかったすべての者に対してであります。
 かれらが安息にあずかることができなかったのは、偏に不信仰だったからだ、と、おわかりになるでしょう。
 そうしたわけですから、皆さん、神の安息にあずかる約束がまだ有効であるのに、自分は取り残されてしまった、と思いこんでしまう人が自分たちのなかから出ないよう、気をつけましょう。神の民には等しく福音が伝えられているのです。が、にもかかわらず、取り残されてしまったと思っている人々に福音の言葉は役に立ちませんでした。福音の言葉とそれを聞いた人々が信仰によって結びつくことがなかったからです。逆にいえば、キリスト者となったわれらはこの安息にあずかることができるのです。
 天地創造の7日目、神はすべての業を終えて休みました。この箇所にも詩篇の一節──けっしてかれらをわたしの安息にあずからせはしない──が響いております。ここでいう<安息>とは、神の国に入って永遠の命にあずかることの同義なのです。「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」(ヘブ4:10)
 だから、われらもこの安息にあずかれるよう精進しましょう。不従順ゆえに堕落する者とならないように。といいますのも、──
 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブ4:12-13)

 〈前夜〉にて簡単に触れましたが、本書簡のキモ、核となるのは、イエスは大祭司である、ということでした。今日の第3章から第8章までが概ねそれについて触れた章でありますが、改めて読んで本稿の筆を執り、その難しさにほとほと参り、かつ手を焼きました。今後数日の間、低調気味な文章を恥ずかしくも情けなくもお披露目する結果になるやもしれませんが、それはわたくしの一知半解を示したものとしてご理解いただければ幸いであります。
 〈神の国の安息〉で語られる事柄は以下の3点に要約できると、思います。つまり、──
 ①すべてのキリストを信じる者に福音は伝えられていること。
 ②なのに安息にあずかれない者があるのは、その人と福音の言葉が信仰によって融合していない、もしくは神に不従順だからであること。
 ③最初の確信を最後まで持ち続けてキリストに連なる者となり、安息にあずかれるよう努力しよう、ということ。
 ──わたくしにわかるのはここまでで、これらについて書かれた内容を細かく読もうとすると、まるで這い寄る混沌に搦め捕られてしまったような気分になります。が、<読書百遍、意自ずから通ず>といいますので、何度も読んでいればそのうちわかってくることもあるだろう、と楽観しているのも事実なのであります。いずれにせよ、その日が来たならば今日の稿などはいの一番に書き改めなくてはならないでしょうね。
 なお、言わずもがなのことではありますが、第3章と第4章を読むにあたってはあらかじめ詩95に目を通しておいた方がいいでしょう。

 本日の旧約聖書はヘブ3:5と民12:7、ヘブ3:7-11と詩95:7-11、ヘブ3:15と詩95:7-8(但し70人訳ギリシア語聖書)、ヘブ4:3と詩95:11、ヘブ4:4と創2:2-3、ヘブ4:7と詩95:7-8(同)。



 昨日そのうち谷川流〈涼宮ハルヒ〉シリーズを読むよ、というお話をしました。読むことに変わりはないのですが、久しぶりに段ボール箱から発掘してみたら(キョンもびっくりな?)驚愕の事実が発覚。──おかしい、そんなはずはないのだ! と叫びましたよ。
 どういうことかと申しますとね。第3巻『涼宮ハルヒの退屈』がどこを探してみても、ないんです。誤棄か、売ったか。はたまた待遇に嫌気がさしてこの巻のみ家出したか? 冗談はともかく、あれぇ、って小首を傾げましたよ。朝比奈さんみたく、ど?してなんですかぁ??[右斜め上]、てどこから声出してんだ、とびっくりされても仕方ないような超音波な声をお伴にね。
 その段ボール箱は勿論隅々まで探したさ。周辺地域もくまなく捜索したさ。でも、未だ発見に至っていない。うん、ホントに、ふしぎ。絶対に本って夜中に自己増殖しているに飽き足らず夜遊びしに外出していると思う。きっと『?の退屈』は夜中にコンビニに行って帰る家がわからなくなっていまもどこかで迷子になっているに違いない。捜索願い出さなくっちゃ。けれど、謝礼は出せない。な、悩ましい……。いっそ、『世界ふしぎ発見』に相談してミステリー・ハンターでも派遣してもらうか……いや、これこそ冗談である。まぁ、この冗談が許されるなら、派遣ハンターは是非松井玲奈で!
 家には本がたくさんあって足の踏み場もないよ、という諸兄よ。或いはそれに準ずる方々よ。身に覚えはありませんか、あるはずの本がどこを探しても見附からない、ってことが。
 実を申せば前述の1冊以外にも行方不明本はあるのだが、最優先はこの『涼宮ハルヒの退屈』。まじめに考えて話をすれば、これだけ他の場所に置いてあるのかなぁ……。なにかの拍子にこれだけ読むか参考とするかのため件の段ボール箱から取り出して、そのまま元の場所に仕舞うのを忘れてしまい、やがて他の本やら資料やらに埋もれてしまったのかしらん。──これはじゅうぶんに可能性のある話だなぁ、って思う。
 あまりに増えすぎた本を前に整理を思えど実行する者はこの世に誰もいない。その結果(の一端)を今回、わたくしは見た。◆

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