第2278日目 〈ヘブライ人への手紙第4章2/2、第5章&第6章:〈偉大な大祭司イエス〉、〈一人前のキリスト者の生活〉他with米澤穂信・私感〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第4章2/2と第5章並びに第6章です。

 ヘブ4:14-5:10〈偉大な大祭司イエス〉
 われらは偉大な大祭司イエス、神の子イエスへの信仰を公にしています。この大祭司は罪こそ犯すことがありませんでしたが、その他についてはあらゆる点でわれら同様の試練に遭ってきました。大祭司という神に仕える職に就く人は、自分自身も弱さを持っているがため、自分以外の人々、たとえば無知な人や迷っている人を思い遣ることができます。また、弱さゆえ自分の贖罪のために供物やいけにえをささげます。
 この誉れに満ちた任務は立候補や他薦によって就く/得るのではなく、かつてアロンがそうであったように神からの召しによって与えられるのです。この点についてはイエスも変わるところはなく、大祭司となる栄誉を自分で得たわけではありません。神はイエスを指して、あなたこそ永遠にメルキゼデクと同じような祭司である、といいました。
 キリストは肉に於いて生きていた時分、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方へ祈り、願いをささげました。その畏れ敬う態度ゆえにそれは聞き入れられました。
 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブ5:8-10)

 ヘブ5:11-6:12〈一人前のキリスト者の生活〉
 メルキゼデクについてもう少しお話ししても構いませんが、やめておきます。あなたの耳が鈍くなっている(別のいい方をすれば「悪くなっている」)からです。本来ならあなた方はもう福音を説く教師になっているべきはずの人なのに、未だそうではなく、誰かに神の言葉の初歩を教えてもらい、幼子の如く乳を飲んでいる。「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」(ヘブ5:13-14)
 われらはキリストの基本的な教え、即ち、──
 ・死んだ行いの悔い改め
 ・神への信仰
 ・種々の洗礼についての教え
 ・手を置く儀式
 ・死者の復活
 ・永遠の審判
などを学び直すようなことはしないで、そうしてキリストの教えの初歩を離れて、ただ完成を目指して歩みを進めてゆきましょう。
 ここで、棄教──キリストへの信仰から離れること/背くこと/棄てることについて、警告しておきましょう。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」(ヘブ6:4-8)
 しかし、愛する人よ、「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」(ヘブ6:10)
 あなた方には最後まで希望を持ち続け、変わらぬ熱心さを保ち続けてほしい、と思います。あなた方には怠け者になったりせず、信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。

 ヘブ6:13-20〈神の確かな約束〉
 かつて神はアブラハムに、あなたを祝福して子孫の数を浜の砂程に増やす、と誓いました。それは自分以上の誓える存在がなかったがために、神は自分に対して斯く誓いを立てたのであります。神は自分の立てた計画が不変である、とはっきり示すために、誓いという形でそれを民に保証したのでした。
 「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。」(ヘブ6:18)
 ──われらの魂に、それは希望と映ります。戦隊を固定させ、安定させる錨にも似て。また、至聖所の垂れ幕の内側へ入るに等しく。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」(ヘブ6:20)

 あらゆる試練を経験し、苦しみのなかに叫び、滂沱と涙を流しつつもなお神への信頼と畏敬と愛と希望を失うことなく持ち続けた人が、神に召されて聖なる者たちを束ねる大祭司となる──イエスを<大祭司>と称すのは斯様な理由(というか根拠)があってこそのことであります。
 昨日読んだ箇所はさっぱりでしたが、今日読んだ箇所はなんとなくながらもわかるところがある。その割にノートには引用が目立つようでありますが……。
 ヘブ6:18「二つの不変の事柄」は前節までの流れから判断すると、<神の約束、神の誓い>となります。これについて神は偽らない、信仰と希望と愛ある限り神はあなた方を忘れることがない、とはなににも優る励ましといえるのではないでしょうか。
 大祭司としてのイエスと並んで名の挙がるメルキゼデクは、創14:18-20が初出。いと高き神の祭司であったサレムの王として、ソドムの王共々アブラム(アブラハム)を迎えてかれに祝福を与えた人であります。その返礼にアブラムは自分の所有物の1/10をメルキゼデクに贈りました。ちなみにアブラムはソドムの王に対しては拒絶の態度を示しましたが、いきさつを詳しく知りたい方は是非「創世記」の当該章を繙いていただきたく思うところであります。なお、メルキゼデクについては明日の第7章にてもう少し詳しく触れられております。

 本日の旧約聖書はヘブ5:4と出28:1並びにレビ8:2及び同12、ヘブ5:5と詩2:7、ヘブ5:6と詩110:4、ヘブ6:13-14と創22:16-17。



 初めて読んだ米澤穂信は<古典部>シリーズであったが、これはアニメの追体験というのが正しいので、読んだ、と表明できる最初の作品は『ボトルネック』(新潮文庫)となる。
 金沢と福井(就中東尋坊)への旅行を目前にしていた頃手にした『ボトルネック』には夢中にさせられた。舞台となる地への憧憬もさることながら、「苦い」とか「残酷」とかいう形容も上っ面を撫でた形容でしかないような風味の物語に搦め捕られて、距離を置いて物を考える暇もないぐらいに没入して、一気呵成に読了へ至ったのである。もとより<古典部>シリーズにも苦虫を嚙み潰したような結末の短編が混じっていたけれど、『ボトルネック』はそれら諸編が陰りと苦みを全面展開して、慈しみや赦しといった救済が入りこむ隙を与えないような世界が、読み手へ提供されているのだ。
 これにすっかりやられて味をしめたわたくしは、間に他作家だが2冊の金沢を舞台にした小説を経由した後、米澤穂信の『儚い羊たちの祝宴』(新潮文庫)に手を伸ばし、現在は『氷菓』以後の<古典部>シリーズ既刊5冊(角川文庫)を再読中。これには雑誌に発表されたままな作品もあるので、第5巻『二人の距離の概算』読了したら図書館でコピーを取ってこよう、と思うている。そのあとは……米澤穂信の別の作品に進んでもう少しこの人の作品群に耽るか、或いは本来の乱読へ戻るか、正直、考えあぐね、決めかねている。
 知人はこの状況を<米澤穂信祭り>と呼んでいるようだが、否、祭りというには当たらない。この状況へ呼称を冠せるならば、フィル・ディックの普通小説のタイトルを流用するのが最適なのだ。つまり、<小さな場所で大騒ぎ>である。呵々。
 それにしても、と思う。米澤穂信ってもしかすると途轍もなく厭世的な物語の紡ぎ手なのかもしれないな、と。『さよなら妖精』(創元推理文庫)や<小市民シリーズ>(同)、<古典部>シリーズからだけでは到底計り得ぬ「闇」を描いて本領を発揮する作家なのだろうな、とも。本領はそこにあるのだろう。◆

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