第2279日目 〈ヘブライ人への手紙第7章:〈メルキゼデクの祭司職〉with<古典部>シリーズの新刊が出るんですってね。〉 [ヘブライ人への手紙]
ヘブライ人への手紙第7章です。
ヘブ7:1-28〈メルキゼデクの祭司職〉
昨日申しあげたサレムの王、メルキゼデクは蛮族の王を倒して戻ってきたアブラハムを祝福し、アブラハムは返礼として所有物の1/10を贈りました。メルキゼデクに系図はありません。生涯の始めも命の終わりもありません。神の御子に似ています。そうしてかれも、永遠の祭司です。
律法はレビ族の祭司制度に則って定められました。その律法に於いてレビ族の祭司は同じイスラエルの民から十分の一の捧げ物を受け取っています。しかしながらレビ族に属さぬどころかイスラエルの民でもない者が、族長アブラハムから(律法で定められる)十分の一の献げ物を贈られているのです。というのも、このメルキゼデクが永遠の祭司であったからです。
律法が民を導いて完全な者にできるならば、なぜアロンのような有限の命持つ祭司ではなく、メルキゼデクとは別に永遠の祭司が新たに立てられる必要がありましょうか。「別の祭司」とは祭壇の奉仕にかかわることのない部族に生まれ出ました。かつてエジプトの地でヤコブが予告し、寿いだように、イエスがユダ族の出身であることは明々白々です。聖書は──神は、ユダ族が祭祀にかかわっていたなどとは一言も述べていません。新たなる永遠の祭司は肉の掟の律法に拠ってではなく、朽ちることなき命の力により立ったのでした。そうして、誓いによって祭司となったのであります。斯くしてイエスはいっそう優れた契約の保証となりました。
イエスは常に生きていて人のために執り成し、自分を通して神へ近附こうととしている人々を完全に救うことができます。
イエスはアロンたちのような死すべき定めの祭司たちと違って、自分の罪のために毎日、贖罪の献げ物をささげる必要がありません。なぜならば、ただ一度、いけにえとして自身をささげたことで成し遂げられたから、もはや贖罪の献げ物を毎日ささげる必要はなくなったのです。
「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。」(ヘブ7:24)
「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」(ヘブ7:26)
「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」(ヘブ7:28)
専ら第3章から第8章まで、大祭司としてのイエスについて縷々考察して述べた一連の箇所が本書簡のヤマ場といいますか、キモである、と一昨日あたり申しあげました。その頂点というべきが今日の第7章であります。小見出しこそ〈メルキゼデクの祭司職〉とありますが、実際は〈イエスこそ永遠の大祭司〉とでもした方がより正確であるように思います。
登場した箇所に「いと高き神の祭司」という文言のみあったがために、永遠の祭司としてのイエスの前表としてメルキゼデクは大いに昇格した存在であるように感じられます。むろん、「創世記」の当該箇所が後代の補記もしくは挿入であることもじゅうぶんに可能性はありましょうが、わたくしは自分が聖書について文献学的興味を持つことを危うく思うておりますので、この話題を深く掘り下げることはやめておきましょう。
ただ経緯がどうあれ、このメルキゼデクも洗礼者ヨハネ同様イエスの先駆──出現の地均し役乃至は引き立て役として機能するパーツであるのは、到底看過し得ぬ事実と申せましょう。
ここまで読んできてわたくしは大祭司としてのイエスについては本章を熟読、思索を繰り返して理解へ至るのがなによりも肝要である、と考えております。
本日の旧約聖書はヘブ7:1-2と創14:17-20、ヘブ7:14と創49:8-10、ヘブ7:17及びヘブ7:21と詩110:4。
昨日のエッセイの続きというか、補完。米澤穂信の<古典部>シリーズ、雑誌に掲載されたきりな短編を図書館でコピーしてこよう云々の件。
昨日原稿を書き終えるまで知らなかったのだが、実は先月中葉、作者自身のTwitterで6年ぶりに<古典部>シリーズの新刊が出ると発表された由。刊行は今年平成28年11月予定という。上述の短編はすべて含まれるということだが、他に書き下ろしなどあるのかは不詳だ。とまれ、図書館に出向いて単行本未収録短編をコピーしてくることは実行されない。
おそらくは此度の新刊も単行本として書店へ並ぶのだろうが、できればその際は既刊分すべてを単行本として発売し直していただき、統一感ある装丁を施してほしい、と願う。たしかシリーズ第1作『氷菓』と第2作『愚者のエンドロール』は単行本で再版はされていないはずだ。ゆえにこそ、である。
可能ならば帯や袖、巻末の広告ページには実写化の文言も写真も盛りこむな。近頃まことしやかに囁かれているように、剛力彩芽と佐藤勝利で主演が決定するならば尚更。おお、ドラマ版『ビブリア古書堂の事件手帖』の悲劇、再び! 原作のイメージを大事にできないような実写化はこの世から駆逐されてしまえ。
……悪夢の如き実写版の話は脇に置くとしても、これでかねてより希望する声の高かった新しいアニメ・シリーズも始動するのだろうか。京都アニメーションが再び手掛けて、スタッフもキャストも同一ならば、大歓迎ですね。◆
ヘブ7:1-28〈メルキゼデクの祭司職〉
昨日申しあげたサレムの王、メルキゼデクは蛮族の王を倒して戻ってきたアブラハムを祝福し、アブラハムは返礼として所有物の1/10を贈りました。メルキゼデクに系図はありません。生涯の始めも命の終わりもありません。神の御子に似ています。そうしてかれも、永遠の祭司です。
律法はレビ族の祭司制度に則って定められました。その律法に於いてレビ族の祭司は同じイスラエルの民から十分の一の捧げ物を受け取っています。しかしながらレビ族に属さぬどころかイスラエルの民でもない者が、族長アブラハムから(律法で定められる)十分の一の献げ物を贈られているのです。というのも、このメルキゼデクが永遠の祭司であったからです。
律法が民を導いて完全な者にできるならば、なぜアロンのような有限の命持つ祭司ではなく、メルキゼデクとは別に永遠の祭司が新たに立てられる必要がありましょうか。「別の祭司」とは祭壇の奉仕にかかわることのない部族に生まれ出ました。かつてエジプトの地でヤコブが予告し、寿いだように、イエスがユダ族の出身であることは明々白々です。聖書は──神は、ユダ族が祭祀にかかわっていたなどとは一言も述べていません。新たなる永遠の祭司は肉の掟の律法に拠ってではなく、朽ちることなき命の力により立ったのでした。そうして、誓いによって祭司となったのであります。斯くしてイエスはいっそう優れた契約の保証となりました。
イエスは常に生きていて人のために執り成し、自分を通して神へ近附こうととしている人々を完全に救うことができます。
イエスはアロンたちのような死すべき定めの祭司たちと違って、自分の罪のために毎日、贖罪の献げ物をささげる必要がありません。なぜならば、ただ一度、いけにえとして自身をささげたことで成し遂げられたから、もはや贖罪の献げ物を毎日ささげる必要はなくなったのです。
「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。」(ヘブ7:24)
「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」(ヘブ7:26)
「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」(ヘブ7:28)
専ら第3章から第8章まで、大祭司としてのイエスについて縷々考察して述べた一連の箇所が本書簡のヤマ場といいますか、キモである、と一昨日あたり申しあげました。その頂点というべきが今日の第7章であります。小見出しこそ〈メルキゼデクの祭司職〉とありますが、実際は〈イエスこそ永遠の大祭司〉とでもした方がより正確であるように思います。
登場した箇所に「いと高き神の祭司」という文言のみあったがために、永遠の祭司としてのイエスの前表としてメルキゼデクは大いに昇格した存在であるように感じられます。むろん、「創世記」の当該箇所が後代の補記もしくは挿入であることもじゅうぶんに可能性はありましょうが、わたくしは自分が聖書について文献学的興味を持つことを危うく思うておりますので、この話題を深く掘り下げることはやめておきましょう。
ただ経緯がどうあれ、このメルキゼデクも洗礼者ヨハネ同様イエスの先駆──出現の地均し役乃至は引き立て役として機能するパーツであるのは、到底看過し得ぬ事実と申せましょう。
ここまで読んできてわたくしは大祭司としてのイエスについては本章を熟読、思索を繰り返して理解へ至るのがなによりも肝要である、と考えております。
本日の旧約聖書はヘブ7:1-2と創14:17-20、ヘブ7:14と創49:8-10、ヘブ7:17及びヘブ7:21と詩110:4。
昨日のエッセイの続きというか、補完。米澤穂信の<古典部>シリーズ、雑誌に掲載されたきりな短編を図書館でコピーしてこよう云々の件。
昨日原稿を書き終えるまで知らなかったのだが、実は先月中葉、作者自身のTwitterで6年ぶりに<古典部>シリーズの新刊が出ると発表された由。刊行は今年平成28年11月予定という。上述の短編はすべて含まれるということだが、他に書き下ろしなどあるのかは不詳だ。とまれ、図書館に出向いて単行本未収録短編をコピーしてくることは実行されない。
おそらくは此度の新刊も単行本として書店へ並ぶのだろうが、できればその際は既刊分すべてを単行本として発売し直していただき、統一感ある装丁を施してほしい、と願う。たしかシリーズ第1作『氷菓』と第2作『愚者のエンドロール』は単行本で再版はされていないはずだ。ゆえにこそ、である。
可能ならば帯や袖、巻末の広告ページには実写化の文言も写真も盛りこむな。近頃まことしやかに囁かれているように、剛力彩芽と佐藤勝利で主演が決定するならば尚更。おお、ドラマ版『ビブリア古書堂の事件手帖』の悲劇、再び! 原作のイメージを大事にできないような実写化はこの世から駆逐されてしまえ。
……悪夢の如き実写版の話は脇に置くとしても、これでかねてより希望する声の高かった新しいアニメ・シリーズも始動するのだろうか。京都アニメーションが再び手掛けて、スタッフもキャストも同一ならば、大歓迎ですね。◆