第2280日目 〈ヘブライ人への手紙第8章:〈新しい、優れた約束の大祭司〉〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第8章です。

 ヘブ8:1-13〈新しい、優れた約束の大祭司〉
 ここまでの要約、──
 ①われらにはイエス・キリストという永遠の大祭司が与えられている。
 ②その永遠の大祭司は神の玉座の右側に着いている。
 ③その永遠の大祭司は主が建てた聖所または真の幕屋で仕えている。
 元来律法に於いて定められる大祭司は、日毎種々の献げ物をささげ、いけにえを供えます。われらの戴く永遠の大祭司がもし地上に在れば、そのような事柄へ手を染めることはなかったでしょう。
 地上の祭司たちは結局のところ、天にあるものの写しと天にあるものの影に奉仕しているに過ぎません。「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」(ヘブ8:6)
 もし最初の契約が完全無欠のものだったなら、新しい契約など必要なかったでしょう。神はかつて南王国イスラエルが滅亡しようという時代、最初の契約に欠点があったこととイスラエルの民の不従順なことを責めて、預言者エレミヤに告げました。即ち、古に結ばれた旧い契約を破棄して新しい契約を締結することを。民が等しく主なる神に立ち帰って、主を知れ、と教え合う必要がなくなるのを望むことを。そのとき神は自分の民の不義を赦して、その罪を思い出したりはしないことを。
 ──そう、敢えて<新しい契約>と呼ぶことで最初の契約の不履行/破棄を宣言したのです。間もなく古きものは消えてゆきます。

 「新約」の意義が簡潔にそうして豊かに説かれております。論旨の明確さ、修飾を削ぎ落とした文章。いずれもパウロ書簡ではなかなかお目にかかれなかったものでありましょう。
 パウロよ、お前は気が狂っている、博学がお前を狂わせている、という総督フェストゥスの言葉(使26:24)がパウロ書簡の一側面とすれば、それと対になるような単純明快ぶり、されど深淵にして豊饒な点が「ヘブライ人への手紙」の一特徴といえるかも知れません。

 本日の旧約聖書はヘブ8:5と出25:40、ヘブ8:8-12とエレ31:31-34。参考として後者を共に引用しておきます。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレ31:31-34)
 「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。/『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。/彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。/『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。/わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。/彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。/小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、/わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」(ヘブ8:8-12)◆

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