第2282日目 〈ヘブライ人への手紙第9章2/2&第10章1/2:〈罪を贖う唯一のいけにえ〉with『残穢』読了の報告と余談、そうしてお知らせ。〉 [ヘブライ人への手紙]

 ヘブライ人への手紙第9章2/2と第10章1/2です。

 ヘブ9:23-10:18〈罪を贖う唯一のいけにえ〉
 斯くして天にあるものの写しは契約の血によって清められるのですが、天にあるもの自体はそれよりも優ったいけにえによって清められなくてはなりません。それはキリストです。キリストは人の手によって造られた聖所ではなく天そのものに入り、われらのため神の御前に現れてくれた。どういうことかというと、「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れて」(ヘブ9:28)くれたのです。
 律法にはやがて訪れる良いことの兆しはあっても実体はありません。為に律法は何人をも完全な者とすることができない。だからキリストは肉を備えて世に来たとき、神よ御心を行うためにわたしは来ました、といったのです。新しいものを立てるために旧いものを破棄するのです。この御心に基づいてキリストはただ一度、自身の体をささげて多くの人々の罪を負い、そうして取り去り、延いてはわれらを聖なる者としたのです。
 祭司は日々礼拝を行い、けっして罪を除くことのできないいけにえを毎日、律法に従ってささげています。われらがキリストはどうでしょうか、──
 「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」(ヘブ10:12-14)

 「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」(ヘブ10:18)

 「ヘブライ人への手紙」の著者はトピックとなる話題の、しかも核心となる点に触れるとき、簡潔な文章と直接的な表現を用いて明晰な論旨を展開し、キリストの慈しみにあふれた神学を説いております。
 今日読んだ箇所もその例に漏れず、人間の罪を一身に背負って十字架上に死に、ただ一度だけ、自らを献げ物/いけにえとしてささげたキリストについて、非キリスト者であるわたくしなども一読合点し、首肯できた程であります。本書簡にはやや難解なところもあるにはありますが、全体としてみれば比較的わかりやすいものであります。新約聖書に於けるキリストとはどのような存在かを知るにあたって、或いはキリスト教入門に際して、本書簡はまたとない入門編であると信じます。福音書と「使徒言行録」に次いで読んでおいていいだろう、とわたくしは思うのです。

 本日の旧約聖書はヘブ10:5-7と詩40:7-9、ヘブ10:16とエレ31:33-34。



 寝る前にちょっとずつ読み進めていた小野不由美『残穢』(新潮文庫)を読了。面白かったぁ。和製ホラーの理想型ではないかしら、これは。あ、ホラーというよりは怪談っていうた方がいいですね。
 どこまでも、いつまでも付いてくる/憑いてくる因縁話。聞いても話しても祟られる、最凶クラスの怨念の連鎖。こういう話を読みたかったんだよ、『リング』や『呪怨』のような瞬間的な恐怖に頼ったものではなく、『残穢』のような日本人の感性と情緒に働きかけていつまでも記憶の残滓として内にあり続ける禍々しい怪異譚を。
 どれだけ自分がこの作品(と併せて映画版も)を気に入ったかといえば、単行本まで買ってきて書架へ収める前に部屋の片隅で体育館座りになってしばし耽読したぐらい。映画版のBlu-rayも無事に注文を済ませ、あとはコンビニに到着したというメールを待つだけの状態。どんだけ愛してるんだ、『残穢』を。
 『鬼譚百景』(角川文庫。そういえばこれも映像化されているんですよね)とセットで改めて寝しなに読み耽ろう。そうして闇の奥から聞こえてくる声に耳を傾け、仄見える景色に目をこらそう。
 ──しかしこの稿を書きながら聴く音楽がメンデルスゾーンの劇付随音楽《真夏の夜の夢》であり、しかも偶然とはいえ〈結婚行進曲〉であるとはなんともミスマッチで、その落差に思わず笑ってしまいます。クラウディオ・アバド=ベルリン・フィル最後の顔合わせとなったコンサートのライヴ録音、ブルーレイ・オーディオであります。
 余談だけれど、「真夏」が「真夏」でなく「茉夏」と一発変換されたときはのけ反りましたよ。ちゃお!◆

 追伸
 明日は用あって安息日とさせていただきます。
 関係者なら「明日」の意義についてわかるはず!□

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