第2283日目 〈ちかごろ日本人作家に傾く理由──われらはそんな世代なのだ。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 ここ数年で読む小説が外国のものから日本のものに比重を移してきたのは、どうしてだろうか。外国の作物で読みたいと思うものがなくなった? ノン! 本屋へ行けば読みたいものなんてザラにある。誘惑されっぱなしだ。にもかかわらず手が伸びない。外人名が覚えられなくなったり、途中で誰が誰だかわからなくなっちゃう? 極々一部を除けばそれこそノンだ。きっと自分でも意識したこともないような理由がそこには潜んでいるに違いない。が、以前程は積極的に手を伸ばさなくなった理由の1つには、新刊であれば殊に文庫の場合総じて単価が高くなっている傾向のあることの他、単純に「読みたい」という烈しい情熱を抱かせるようなものが翻訳されなくなった、という点に集約できそうである。
 最近日本人作家のものをよく読むようになったのは、自分が読みたい物語を書いてくれる人が多くなったからだ、といえよう(追悼、宇野功芳)。現在、第一線で活躍している中堅作家は自分とほぼ変わらない文化を享受した、ほぼ世代を同じうする人たちだ。なにしろ背景となる種々のフィクションや時代風俗などが共通項だから、どんなに奇異な設定であろうとも、さして拒絶反応を示すことがないのである。われらはそんな世代なのだ。もっとも、いま読んでいる日本人作家のなかにはわたくしが海外文学に熱中していた頃から活躍している人もいるので、以上述べてきた理由は氷山の一角にしか該当しないのだが……。
 要約すれば、いまの自分が面白い、と思い、読みたい、と思う作家の比重はどちらかといえば日本人の方に傾き、しかもそこから離れることはしばらくの間は難しそうである、ということ。
 さて。明日は休み、特に外出する用事もないので読みかけの学園ミステリでも読もうかな。◆

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