第2291日目 〈「ヤコブの手紙」前夜〉 [ヤコブの手紙]

 公同書簡の劈頭を飾る「ヤコブの手紙」は、わたくしのような非キリスト者にとって全書簡のなかで最もわかりやすいものであります。内容や文章が平明、論旨も簡にして要を得ている。それだけに留まらず、〈パウロ書簡〉が教理的神学的側面を強調するのに対して、「ヤコブの手紙」は現実的実践的側面を色濃く漂わせております。
 パウロが手紙のなかで説くのが「信仰」という実を育てるにあたっての心構えだとすれば、「ヤコブの手紙」が述べるのはその実の育て方です。敢えていうなら〈パウロ書簡〉は園芸理論書であり、「ヤコブの手紙」は園芸手引き書(ハウ・トゥ)である、というところでしょうか。
 どうやら「ヤコブの手紙」が書かれた頃、キリスト者、キリスト者になりかけの人々の間には、信仰さえきちんと持っていれば多少行いが悪くても、或いは奉仕や施しなど信仰に基づく行いがなかったとしても、救われるのだ、という考えが一般的にあったようです。むろん、これは誤り、誤解でありまして、キリスト者としての務めを果たすには信仰があるのは当然として、信仰生活に於ける行いが重要となってまいります。それは祈りであり、聖餐であり、洗礼であり、また奉仕や励まし合いだったでありましょう。煎じ詰めると本書簡にて著者がいいたいのは、<するべきことをきちんと行いなさい>という単純明快なことに他なりません。
 では、「ヤコブの手紙」は誰が書いたのか。新約聖書では4人の「ヤコブの手紙」が登場しますが、本書簡の著者問題で俎上に上るのは内3人です。1人目はアルパヨの子である小ヤコブ(マタ10:3、マコ15:40)、2人目はイスカリオテではない方の使徒ユダの父ヤコブ(ルカ6:16)、3人目はゼベダイの子ヤコブ(マタ4:21)。この3人目のヤコブは殉教時期と手紙の執筆推定時期がまったく合わないことから著者論争に名の挙がる機会は殆どありません。
 4人目が、主の兄弟ヤコブであります(使12:17、15:13、21:18、一コリ15:7etc)。ナザレのイエスには弟や妹がおりました。ヤコブはいちばん上の弟でしたが、イエス存命中は兄の特福音なぞ信じていないようだったが死して後の復活に接してからはこれを信じるようになり、使徒たちに迎えられてエルサレム教会の指導者となり、支柱となり、牧者としてユダヤ人相手に福音を説くなど活動し、かれらの改宗に腐心し、かつ手を差し伸べました。
 ペトロはヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ1世)に捕らえられた牢から天使の導きにより解放された際は同士の許を訪ねて、自由の身となったことを(主の兄弟)ヤコブに報告してくれるよう頼んでおります。またパウロは第3回宣教旅行を終えた後、エルサレム教会にヤコブを訪ね、その場に居合わせた長老たちの前で、「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」(使21:19)のでありました。
 消去法を用いずとも、「ヤコブの手紙」の著者はこの4人目のヤコブ、即ち主の兄弟にしてエルサレム教会の指導者、義人ヤコブと判断して、まず間違いなさそうであります。
 では、執筆場所は? 執筆年代は? 場所についてはエルサレム以外の地を挙げること自体が難しそうです。エルサレム教会の牧者という立場を考えると尚更ではないか、と思うのであります。まぁ、時にはかれも旅空の下にある日もあったでしょうが、それをいい始めるとヤコブが足跡を残したすべての地を候補にしなくてはなりません。パウロならともかく、職務上1ヶ所に留まることが多かったであろうヤコブがエルサレム以外の地で斯様にまとまりのある手紙を書く可能性はずいぶんと低いのではないでしょうか。わたくしは本書簡の執筆地をエルサレムと考え、他に選択肢を思い浮かべられぬ者であります。
 書かれた時期については他書簡同様に開きがあって一致を見ておりません。念頭に置くべきはヤコブが70年のエルサレム陥落から遡ること数年前、神殿の壁から突き落とされて殉教した、という伝承でありましょう。それが史実かは別として、かれが60年代に殉教したのは確かなようであります。一部ではかれの晩年にあたる時期に執筆されたと考えられているようでありますが、大勢を占めているのは40年代後半、もう少し狭めるならば45-48年頃である由。理由としては、本書簡のなかでエルサレム会議に触れた箇所がないこと、教会を指すのに「会堂」という呼び方をしている(ヤコ2:2、但し新共同訳では「集まり」と訳される)ことなどあるようですが、殊後者についてはわたくしにはどうにもわかりかねる点であります。
 ──わたくしが聖書を読み始める直前だったでしょうか、畳に寝転がって読んだ本に内田和彦『「聖書は初めて」という人のための本』(いのちのことば社 1999.11)というものがありました。その第6章にこのような一文があります。曰く、「(聖書に書かれていることを)何でも杓子定規に同じことをするというより、そこにある精神、姿勢などを自分に当てはめることが大切です」(P83)と。
 「ヤコブの手紙」はたとえば「試練と誘惑(忍耐)」、「差別(えこひいき)」、「舌の制御」、「驕るな」、「富者への警告」、「忍耐と祈り」などを信仰生活のなかでどのように取り入れ、適用させるか、ということについて書いております。本稿冒頭にて本書簡を「現実的実践的」というた所以であります。
 先述の内田の文章をここに重ねるならば、本書簡は現在のわたくしの心奥にまで容赦なく突き刺さり、一方で戒めとも諫めともなる手紙となりそうな予感がしております。まあ、わたくしも公私共々(専ら前者に傾くが)いろいろありますのでね。
 「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコ1:6)
 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコ2:17)
 「あなたがたのなかで苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(ヤコ5:13)
 ──それでは明日から1日1章の原則で、「ヤコブの手紙」を読んでゆきましょう。◆

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