第2311日目 〈「ペトロの手紙 一」前夜〉 [ペトロの手紙・一]

 使徒や伝道者の熱意と信心によってナザレのイエスの教え、福音はエルサレムを中心としたシリア・パレスティナの外へ運び出され、伝播し、各地に教会を拠り所とするキリスト者の小集団、或いは社会を築くようになりました。「使徒言行録」や個々の書簡に見るとおりであります。しかし、この世に宗教はいまも昔もユダヤ教とキリスト教ばかりではない。離散ユダヤ人は小アジアやエジプト、ギリシアやローマ、スペインなどにまでさすらい、それぞれの土地に寄留するのですが、当然、そこにも土着の宗教があるのです。われらはパウロの言動を通して異邦の地でキリストの教えを広め、根附かせ、改宗させることの苦労と困難を一端なりとも知っている。離散ユダヤ人にも同じことがいえるでしょう。かれらのなかには長老も教師も伝道者もいたことであろう──すべてではないにしても、それらの役割を担う者は。
 このことについて、ヴァルター・クライバーはいう。曰く、「通常、古代社会は、異なる信仰を持つ者が国家の神々を敬い、その他の点でも同胞市民の宗教を認める意思を表明する限りは、彼らに対して非常に寛容であった。しかしながら、若い、伝道の熱意にあふれたキリスト者との衝突は、正にこの点において起こらざるを得なかったのである」(『聖書ガイドブック』P255 教文館 2000年9月)と。即ち、キリスト者が辿り着くまでは寛容という名の暗黙の了解の下、相手方の宗教/信仰が自分たちのコミュニティ内で共存し得たけれども、神とその御子を信じるキリスト者は寄留先の宗教を完全否定して自分たちの信仰こそ唯一無二と説いて改宗を迫りもしたのだ、ということ。なんだか使17:16-34で描かれた、アテネを訪れたパウロの挿話を思い出せます。
 古代ローマ、オリエント社会に於いてキリスト者迫害といえば、64年ローマ大火に端を発するネロ帝や90年代のドミティアヌス帝によるそれを連想しますが、「ペトロの手紙 一」執筆背景にある衝突はもっと小規模で、日常茶飯事的な迫害であったのです。迫害なる語が大袈裟ならば、その類語に差し替えていただいて構わぬ。
 とまれ、本書簡は寄留先でその信仰ゆえに虐げられたり、村八分に遭ったり、肩身の狭い思いを味わっているキリスト者へ宛てた励ましと慰めの手紙であります。「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません」(ペト一4:16)てふ文言は本書簡の性質を捉えて余さぬものとわたくしには思えます。当時これを読んだ人々はどんなにか救われた気持ちであったでしょう。
 本書簡は12使徒の筆頭にして初代ローマ教皇であるペトロが従者シルワノ(シラス)に、ギリシア語で書かせた、とされています。当時ペトロはシルワノとマルコ、その他の人々と共に「バビロン」にいた様子(ペト一:12-13)。バビロンとは旧約聖書の時代、ネブカドネツァル王の名と一緒に記憶される新バビロニア帝国帝都の旧跡を指すのでは、勿論ありません。「ヨハネの黙示録」にも「バビロン」は出ます。「大淫婦バビロン」とはよく知られた表現であります。本書簡(や「黙示録」)で触れられる「バビロン」とは「ローマ」を指しており、つまり暗喩なのであります。おそらくは旧約聖書を代表する強大なる敵の名を、新約時代に於ける世界の覇者ローマ帝国に仮託して与えたのでありましょう。
 この手紙はペトロ殉教の年に書かれた、とされます。それはつまりローマ大火とキリスト者の弾圧が行われた64年のこと。この年、ペトロは一端ローマを離れて他の地へ身を隠そうとしました。が、ローマを去って程なく街道を歩いていると道の向こうからこちらへ歩いてくる師イエス・キリストを見ました。そうしてペトロはかの有名な台詞、「クウォ・ヴァディス、ドミネ?」(Quo vadis, Domine?/主よ、どこへ行かれるのですか?)を口にします。イエスは再び十字架に掛かるためにローマへ行く、と答えました。そこでペトロは為すべき役目に気附き、踵を返して都へ戻ってローマ兵に捕縛され、逆さ十字架の刑に処されて殉教したのでありました。これが今日最もよく知られるペトロの最期であります。この挿話の信憑性も本書簡の執筆年代の正確なるところも未詳ですが、特に疑を呈す材料も考えもないので、長く信じられてきた「著者:ペトロ(シルワノ代筆)、時代:64年、場所:ローマ」という言説に首肯してまったく差し支えない、と考えます。
 寄留地に於ける離散ユダヤ人が被っている抑圧と排斥に対して、励ましと慰めをもたらすのが本書簡であります。その内容の主たるところを引用という形で示しましょう、──
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペト一1:8-9)
 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(ペト一3:21)
 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(ペト一4:12-14)
 ……当初は続く「ペトロの手紙 二」と併せて〈前夜〉の稿を起こすつもりだったのですが、考え直して双方の書簡に個別に〈前夜〉を付す考えに改めました。何をか況んや、というところでしょうが、つまり従来通りの方法に落ち着いた、ということであります。
 それでは明日から1日1章の原則で「ペトロの手紙 一」を読んでゆきましょう。◆

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