第2317日目 〈「ペトロの手紙 二」前夜〉 [ペトロの手紙・二]

 聖書ではたびたび偽預言者、偽教師について注意が喚起されてきました。たとえば旧約では王上18:1-40やエレ14:13-16、新約ではマタ7:15やマタ24:11などがありました。これから読む「ペトロの手紙 二」(「ペト二」)が取り挙げる話題の中心となるのも偽教師への警戒を促すものです。曰く、偽教師が現れて信徒を惑わそうとしている、かれらの言葉に耳を貸すことなく信仰を純粋なまま持ち続けよ、と。
 ふしぎなことに大衆は偽者の言動を支持し、これへ右に倣えする傾向があります。なにを以て偽者というか、対象が一個人の思想や行動にかかわると一概に規定はしづらいですが、本ブログの場合それはキリストの福音や再臨を否定する者、ということになる。
 これまではかれらの存在に気を付けよ、という程度のことだったのが、本書簡と、読むのは2週間ばかり先になるけれど「ユダの手紙」ではいよいよかれらの存在が具体的になってきたようで、両書簡にて触れられる偽教師に対する警告は以前よりも微細にわたっております。逆の見方をすれば、手紙の著者が仄聞した偽教師の評判は無視できないぐらいのものとなっていて、その人心掌握術はじゅうぶん警戒に値するものだったのでしょう。
 本書簡は1章につき1つのテーマが語られているので、そうした点では非常にわかりやすく全体を俯瞰することができます。「ペト二」で語られる内容は3つに大別できる。1つは、キリストを通して与えられる神の約束。1つは、前述の偽教師への警戒。最後に、キリストの再臨。
 ここでは3つ目についてちょっと触れておきます。かつてはキリストの再臨がすぐにでも実現する、と考えられていた時代がありました。それは概ね第一次ユダヤ戦争に於ける70年のエルサレム陥落を1つの区切りとして、信じられていたようであります。が、時間が経つにつれ、時代が下るにつれ、初めは再臨を信じていた人もだんだんと疑心暗鬼になってゆき、終いにはペト二3:4のような台詞を吐くに至るのであります。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」
 この点について本書簡が述べるのは、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペト二3:9)ということ。要するに「準備中」という名の「保留」であります。
 未だ実現しないキリストの再臨は、それでもやがて果たされる約束なのだから、自分たちの信仰を大切にし、その堅固な足場を失わないようにして、神に認めてもらえるよう信徒として為すべきを為して励め。──本書簡は最後にそのようなメッセージを伝えて〆括られます。
 では、本書簡はいつ、どこで、誰によって書かれたのでしょうか。実はここが問題なのです。昔から様々論じられてきましたが、概ね以下の2つの考えにまとめられるようであります。箇条書きにすれば、──
 ①「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ」(ペト二1:1)によって64年頃、おそらくはローマで書かれた。
 ②ペトロ派の人物によって1世紀後半(70年以後)から2世紀初頭にかけて、どことは推定しかねる場所で書かれた。
 前者はともかく後者については、「ユダの手紙」が大きく関係してきます。というのも、「ペト二」と「ユダ」には偽教師への警戒というテーマが重複しており、新約聖書外典を出典とした文言があってそれが似通っているから、というのです。浅学のわたくしには原典にあたって影響関係など指摘できないのが残念でなりません。が、フランシスコ会訳の両書簡の解説をまとめると、──
 ・ペト二2-3(特に2:1-18,3:1-3)とユダは非常に似ていて、「ペト二」は「ユダ」もしくは共通の資料に依存している、と考えられる(P648)。
 ・「ペト二」と「ユダ」は近しい思想を持っており、「ユダ」には外典「エノク書」からの引用が多いので、それを踏襲した「ペト二」は「ユダ」よりも後の時代に成立。「ペト二」の著者は「ユダ」を参考にした(P681)。
 つまり「ユダ」は「ペト二」に先行し、「ペト二」は「ユダ」に依拠している(部分がある)、というわけです。
 正直なところ、なにが正しいのかはわかりません。考える程深い霧の更に奥つ方へ迷いこんでゆく思いが致します。偽教師の出現について「ペト二」は未来の出来事として語り、「ユダ」では既定の事実として語られていることを見れば、成立年時は①と見るのが妥当でありましょう。が、それだけでは片附けられない問題が潜んでいるのも事実。ただわたくしはこの件について、「ペト二」が「ユダ」に依存しているというよりは、時代と場所を隔てて偶々同じ話題が扱われただけのように思えてならないのです。
 「ある章句が極めて類似しているので、一方が他方を模倣したと考える学者もいる。だがそのように結論づける必要はない。使徒たちは常に互いの話すことを聞いていたし、ある一定の表現や聖書の例話は、キリスト者の共通の語彙の一部となっていたのである。聞くことと記憶することと非常に頼る文化においては特にそうであった」(ヘンリー・H・ハーレイ『新聖書ハンドブック』P879 いのちのことば社 2009.5)
 ……わたくしはハーレイの言葉を支持し、首肯する者であります。
 最後に本書簡の宛先ですが、「ペト一」と同じく小アジア中央部から北部一帯の教会、そうして信徒と考えてよいと思います。「わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いています」(ペト二3:1)とあるからです。
 読書に先立って本書簡から真に心へ留めておくべき文言を引用しておきます。
 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペト二1:20-21)
 「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。/彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」(ペト二2:9-10)
 それでは明日から1日1章の原則で「ペトロの手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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