第2318日目 〈ペトロの手紙・二第1章:〈挨拶〉、〈神のすばらしい約束〉&〈キリストの栄光、預言の言葉〉with本の話と機械的な日々。〉 [ペトロの手紙・二]
ペトロの手紙・二第1章です。
ペト二1:1-2〈挨拶〉
われらが神と主キリストの義によってわれらと同じ尊い信仰を受け入れたあなた方へ、イエス・キリストの僕にして使徒であるわたしシメオン・ペトロが手紙を書き送ります。
どうぞあなた方に平和と恵みが豊かに与えられますように。
ペト二1:3-15〈神のすばらしい約束〉
主イエスは命と信心にかかわるすべてのものを与えてくれました。というのも、栄光と力ある業とで召し出してくれた方を認識させるためです。この栄光と力ある業とによって、神はわれらへ素晴らしい約束を与えました。神の本性にあずからせるためです。
信仰。徳。知識。自制。忍耐。信心。兄弟愛。そうして、愛。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなた方は怠惰な生活に染まることなく主キリストを知るようになるでしょう。
逆にこれらを備えていない者は視力を失っているも同然です。地殻の者が見えず、以前の罪が清められたことを忘れた者たち……。
ああ、兄弟たちよ。選ばれたこと、召されたことを誇りに思いなさい。それを確固たるものとするよう励みなさい。上に述べた事柄を実践すれば、罪に陥ることなどゆめありません。斯くしてわれらは救い主キリストが滑る永遠の御国へ入ることができるのです。
わたしの望みは、以上のことをあなた方が思い出してくれること、それによって奮起してくれることです。それが、この体をこの世の仮の宿としている間に果たすべき役目である、と思うています、──
「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」(ペト二1:14-15)
ペト二1:16-21〈キリストの栄光、預言の言葉〉
われらはキリストの栄光を伝えるために話を創作したことはありません。そんな必要があったでしょうか、われらはキリストの栄光の目撃者なのに?
かつてわたしペトロはヤコブとその兄弟ヨハネと一緒に主に伴われて、聖なる山へ登りました。そこでわれらは荘厳なる栄光のなかから「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が響くのを聞きました。そのとき主は父なる神から栄光と誉れを受けたのです。
「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペト二1:19-21)
昨日、本書簡の執筆年代についてペトロ真筆ならば64年頃、と記しました。本書簡のなかにその根拠を求めれば、ペト二1:14「この仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」なる一文がそれとなる。一旦は離れたローマへ戻って逮捕されたあと、手紙を認める余裕があったとは思えません。
パウロはローマへ護送されたあと丸2年にわたって軟禁状態となっており、その間伝道に努めた旨「使徒言行録」にありますが(使28:30-31)そうですが、当時のパウロとこのときのペトロとでは置かれた状況が随分と異なります。
為、本書簡はローマを離れる直前のペトロが逮捕の不安に怯えつつ、命の危険を感じつつ、筆を執って、要点を絞って書いたものなのでありましょう。ペトロの最後の聖訓、と捉えてよいと思います。
後半でペトロが回顧する、イエスに連れられて聖なる山に登り、そこで声を聞いたという件。これは共観福音書にある挿話で、マタ17:5-6、マコ9:7-8、ルカ9:34-36に記載があります。なお、ここでいう「聖なる山」(ペト二1:18)とはタボル山もしくはヘルモン山と考えられています。
相も変わらず米澤穂信を読んでいる。『さよなら妖精』を読了したいまは『王とサーカス』(東京創元社)。『さよなら妖精』に登場した太刀洗万智が主人公の長編小説で、ようやく物語が本格的に始動してきたところだからなんとも判定しかねるが、なかなか面白くて短い時間のなかページを繰る手が止まらなくて、困る。
渡部昇一だったかな、恩師に流行りの小説を貸したところ、こういう面白い本は寝不足になってよくないね、と著書で綴っていたのは。昨今この言葉をこうも実感させる小説と出会うたことはない。そんな意味では僥倖ともいえる1冊。
なんだかね、本を読んでいるときとこうして文章を書いているときだけが安堵できる、救いの時間なんだ。あとの時間はずっと煉獄の炎で焼かれている気分ですよ、はい。
顧みればわたくしのちかごろの行動は判で押したように穏やかで、機械的だ。本音をいえばあまりの刺激のなさに溜め息吐いてしまう。が、わたくしには<ピース>を欠いた人生しかないのである。腫れ物に触るような感じで扱われ、終には「こんなはずではなかった」と呟きながらこの世を去るのだろうね。まぁ、どうでもいい話なのだけれど。誰しも望んだ人生を謳歌できるわけでもないから、仕様がないか。
暗い話はここまで。というて、明るい話が始まるわけでもない。それよりなにより、もうすぐ終わる。
いま読んでいる本について触れた。待機中の米澤穂信は他に3冊ある。冊数が膨れあがったことは想定外、ゆえに予定も大きく遅れが生じているわけだが、これについて特に沙汰する気はない。喜ばしき時代が出来した、と思えばそれで良いのです。更なる想定外として特記することがあるとすれば、宮部みゆきの時代怪談が4冊ばかり加わったことかしらん。んんん、ゴールとして用意した畑野智美『海の見える街』(講談社文庫)に辿り着くのは、いったいいつのことなのだろうね、モナミ? 今年の読書予定リストには明日明後日中に有川浩の新刊『アンマーとぼくら』(講談社)が追加されるというのに……。
さて、朝から降っていた雨があがった。現在21時23分(注:本稿入力時点では22時01分)。<スタバでMac>してから家路に着くか──。◆
ペト二1:1-2〈挨拶〉
われらが神と主キリストの義によってわれらと同じ尊い信仰を受け入れたあなた方へ、イエス・キリストの僕にして使徒であるわたしシメオン・ペトロが手紙を書き送ります。
どうぞあなた方に平和と恵みが豊かに与えられますように。
ペト二1:3-15〈神のすばらしい約束〉
主イエスは命と信心にかかわるすべてのものを与えてくれました。というのも、栄光と力ある業とで召し出してくれた方を認識させるためです。この栄光と力ある業とによって、神はわれらへ素晴らしい約束を与えました。神の本性にあずからせるためです。
信仰。徳。知識。自制。忍耐。信心。兄弟愛。そうして、愛。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなた方は怠惰な生活に染まることなく主キリストを知るようになるでしょう。
逆にこれらを備えていない者は視力を失っているも同然です。地殻の者が見えず、以前の罪が清められたことを忘れた者たち……。
ああ、兄弟たちよ。選ばれたこと、召されたことを誇りに思いなさい。それを確固たるものとするよう励みなさい。上に述べた事柄を実践すれば、罪に陥ることなどゆめありません。斯くしてわれらは救い主キリストが滑る永遠の御国へ入ることができるのです。
わたしの望みは、以上のことをあなた方が思い出してくれること、それによって奮起してくれることです。それが、この体をこの世の仮の宿としている間に果たすべき役目である、と思うています、──
「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」(ペト二1:14-15)
ペト二1:16-21〈キリストの栄光、預言の言葉〉
われらはキリストの栄光を伝えるために話を創作したことはありません。そんな必要があったでしょうか、われらはキリストの栄光の目撃者なのに?
かつてわたしペトロはヤコブとその兄弟ヨハネと一緒に主に伴われて、聖なる山へ登りました。そこでわれらは荘厳なる栄光のなかから「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が響くのを聞きました。そのとき主は父なる神から栄光と誉れを受けたのです。
「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペト二1:19-21)
昨日、本書簡の執筆年代についてペトロ真筆ならば64年頃、と記しました。本書簡のなかにその根拠を求めれば、ペト二1:14「この仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」なる一文がそれとなる。一旦は離れたローマへ戻って逮捕されたあと、手紙を認める余裕があったとは思えません。
パウロはローマへ護送されたあと丸2年にわたって軟禁状態となっており、その間伝道に努めた旨「使徒言行録」にありますが(使28:30-31)そうですが、当時のパウロとこのときのペトロとでは置かれた状況が随分と異なります。
為、本書簡はローマを離れる直前のペトロが逮捕の不安に怯えつつ、命の危険を感じつつ、筆を執って、要点を絞って書いたものなのでありましょう。ペトロの最後の聖訓、と捉えてよいと思います。
後半でペトロが回顧する、イエスに連れられて聖なる山に登り、そこで声を聞いたという件。これは共観福音書にある挿話で、マタ17:5-6、マコ9:7-8、ルカ9:34-36に記載があります。なお、ここでいう「聖なる山」(ペト二1:18)とはタボル山もしくはヘルモン山と考えられています。
相も変わらず米澤穂信を読んでいる。『さよなら妖精』を読了したいまは『王とサーカス』(東京創元社)。『さよなら妖精』に登場した太刀洗万智が主人公の長編小説で、ようやく物語が本格的に始動してきたところだからなんとも判定しかねるが、なかなか面白くて短い時間のなかページを繰る手が止まらなくて、困る。
渡部昇一だったかな、恩師に流行りの小説を貸したところ、こういう面白い本は寝不足になってよくないね、と著書で綴っていたのは。昨今この言葉をこうも実感させる小説と出会うたことはない。そんな意味では僥倖ともいえる1冊。
なんだかね、本を読んでいるときとこうして文章を書いているときだけが安堵できる、救いの時間なんだ。あとの時間はずっと煉獄の炎で焼かれている気分ですよ、はい。
顧みればわたくしのちかごろの行動は判で押したように穏やかで、機械的だ。本音をいえばあまりの刺激のなさに溜め息吐いてしまう。が、わたくしには<ピース>を欠いた人生しかないのである。腫れ物に触るような感じで扱われ、終には「こんなはずではなかった」と呟きながらこの世を去るのだろうね。まぁ、どうでもいい話なのだけれど。誰しも望んだ人生を謳歌できるわけでもないから、仕様がないか。
暗い話はここまで。というて、明るい話が始まるわけでもない。それよりなにより、もうすぐ終わる。
いま読んでいる本について触れた。待機中の米澤穂信は他に3冊ある。冊数が膨れあがったことは想定外、ゆえに予定も大きく遅れが生じているわけだが、これについて特に沙汰する気はない。喜ばしき時代が出来した、と思えばそれで良いのです。更なる想定外として特記することがあるとすれば、宮部みゆきの時代怪談が4冊ばかり加わったことかしらん。んんん、ゴールとして用意した畑野智美『海の見える街』(講談社文庫)に辿り着くのは、いったいいつのことなのだろうね、モナミ? 今年の読書予定リストには明日明後日中に有川浩の新刊『アンマーとぼくら』(講談社)が追加されるというのに……。
さて、朝から降っていた雨があがった。現在21時23分(注:本稿入力時点では22時01分)。<スタバでMac>してから家路に着くか──。◆