第2324日目 〈ヨハネの手紙・一第1章:〈命の言〉&〈神は光〉with専用ラックをプレゼント、って新潮文庫だったっけ?〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第1章です。

 一ヨハ1:1-4〈命の言〉
 初めからあったもの、われらが聞き、見、しっかりと目で見て、触れたもの──即ち命の言について、お伝えします。
 この命、つまり御子、キリストは現れました。われらは、自分たちの前に現れたこの永遠の命(これは元々御父と共にあったわけですが)を見て、あなた方へ証し、伝えるのです。
 われらが見て聞いたものをあなた方にも伝える理由は、あなた方もわれらとの交わりを持つようになるからであります。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(一ヨハ1:3)
 このように書く理由は、われらの喜びが世界中へ満ちあふれるようになるためです。

 一ヨハ1:5-10〈神は光〉
 神は光であり、神には闇がまったくない。これが、われらが既にイエスから聞いて、あなた方へ伝えようとしていることです。
 神との交わりを持っている、といいながら闇のなかを歩く人は、嘘つきです。真理を行う人でもありません。
 が、神は光のなかにいる。われらが光のなかを歩むならば、互いに交わりを持っていることになります。そうして、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(一ヨハ1:9)
 ──罪を犯したことがない、と誰がいうでしょう? そんな台詞は神を偽りというのと同じで、発言者の内に神の言葉はありません。自分は罪など犯していない、という者は自らを欺いており、その者の内に真理はありません。
 
 闇のなかを歩く人、罪を犯したことがない人。かれらは反キリストの立場にある人です。当然、かれらのなかに神の言葉は刻まれていないし、わずかの真理さえ持ってはいません。対してキリスト者(であるわれら)は……、と著者は語ります。この反キリストの行為を読むとき、その背後に著者の憤激に似た感情を認めてしまうのは一人、わたくしだけでありましょうか。
 キリスト者はイエスの血によってあらゆる罪から清められている。勿論これは、十字架上の死、パウロの思想にも通じる<十字架の神学>であります。これまでも何度となく新約聖書に現れ、われらも読んできたテーゼですが、〈前夜〉でも触れたように反キリストは肉なる状態にあったイエスを悪と見做し、十字架上の死も復活も否定する。──そんな背景あってこその本章後半であります。
 ……お読みいただいてわかるでしょうし、或いは5日目を読めばおわかりになりましょう、本書簡には手紙の定型である〈挨拶〉と〈結びの言葉〉が存在していないことに。元々あったのが新約聖書に収められるまでに欠落してしまったのかもしれないけれど、まさかそんな上手い偶然があろうとは思えません。最初からなかった、と考える方がむしろ自然です。それが為に本書簡は別の通信文に添えられた回状ではなかったか、とわたくしは想像するのであります。



 むかしむかしのことだと思ってほしい。自分が高校生の頃、否、或いはもうちょっとあとだったかも。夏恒例の「新潮文庫の100冊」は当時からあったけれど、帯の端っこに印刷された応募券ね、あれを30枚とか50枚とか送るとあくまでそれなりな賞品がもらえた、そう記憶します。賞品に目がくらんで一所懸命買って読んで集めたことはないけれど、いや、無料配布の目録にはその写真が出ていてなんとなく記憶の底に留まっている、という話ですよ、コホム。
 で、その100冊の賞品なんだけれど、応募券100枚集めて出版社に送ると豪華賞品なる名目で全点が収納可能な木製ラックがもらえます、っていうのは新潮文庫ではなかったかな。文庫にも厚さというものがあるから全冊を収めることは微妙に不可能な気が、当時からして仕方なかったんだけれどね。もし新潮文庫じゃなかったらごめんなさい。でも、たとい目録が貸し倉庫にあっていま開いて確かめることができなくとも、それは新潮文庫であったという確信が9割8分はあるのだ……残りの2分は照れ隠しであると誰が信じてくれるか。
 どうしてこんなことを書いているかといえば、何年も前に東急ハンズで購入した木製CDラックへ試しに新潮文庫を詰めてみたら約60冊が収められたからなんだよね。そこで湧き起こった疑問──本当にあの木製ラックに文庫100冊を収蔵することは可能だったのか?◆

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