第2326日目 〈ヨハネの手紙・一第2章2/2&第3章:〈神の子たち〉、〈互いを愛し合いなさい〉他with汚濁末法の世を生き抜いてゆくために〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第2章2/2と第3章です。

 一ヨハ2:28-3:10a〈神の子たち〉
 御子の内にいつもいれば、再臨については確信が持て、それが実現したらば御前で恥じ入ることもないでしょう。御子は正しい、と知っているならば、あなた方は、義を行う者が皆神から生まれたことがわかるはずです。
 われらへ注ぐ御父の愛がどれ程のものか、考えたことがありますか? それはわれらが神の子と呼ばれる程の愛なのです。そうして事実、われらは神の子なのです。神の子としてこれからわれらがどのような役割を担うことになるのか、それはまだわかりません。が、御子が現れるにあたってわれらは御子に似た姿になることを知っています。
 御子へ望みをかける人は、御子がそうであったように自分を清めます。
 罪を犯す者は法にも背く。道理であります。罪を犯すこと、法に背くこと、これらは同義です。御子は罪を取り除くために来ました。
 御子に罪というものはありません。ゆえ、われらも御子の内にある限りは罪とは縁なき者でいられる。逆にいえば、罪を犯す者、法に背く者は誰も彼も御子を見たことも、知ることもない、というわけです。
 子らよ、惑わされるな。義を行う者は正しい。罪を犯す者は悪魔に属す。神の子が現れたのは、悪魔を滅ぼすため。神から生まれた人は罪を犯さない、神の種がその人の内にあるゆえに。神の子らと悪魔の子らの線引きは明確です。正しい生活をしなさい。

 一ヨハ3:10b-18〈互いを愛し合いなさい〉
 自分の兄弟を愛さない者もまた、神には属していません。これは、あなた方が初めから聞いている教えです──汝ら、カインの轍を踏む勿れ。
 「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」(一ヨハ3:14-15)
 イエスはわれらのために命を捨てた。それはわれらへ愛を教えました。われらも兄弟のため命を捨てなくてはなりません。有り余る富を持ちながら貧窮、欠乏する兄弟を見て手を差し伸べない者の内に、どうして神の愛が留まることがありましょうか。
 「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハ3:18)

 一ヨハ3:19-24〈神への信頼〉
 「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」(一ヨハ3:21-22)
 というのも、われらが神の掟を守り、かつ御心にかなう行いに努めているからです。神の掟、それは互いに愛し合いなさい、ということでした。それを守る人はいつまでも、どんなときでも、神の内に留まっていられますし、また、神もその人の内に留まっていることでしょう。それは、神が与えてくれた“霊”によってわかるのです。

 なんだか好きな章ですね。わが身に即して思うことができるためかもしれません。
 罪を犯す者は悪魔に属す。神に属する者は罪を犯さない。神に属するとは義を行う人。義を行うとは神の掟を守る人、「互いに愛し合え」という掟を守る人のことである。──なんと明快ではありませんか。
 なお、第10節は小見出しのつく箇所の不自然さを思うて私意により「10a」と「10b」に分割しました。

 本日の旧約聖書は一ヨハ3:12と創4:3-8、一ヨハ3:23とレビ19:18。



 いつまでいまの会社にいるのか、いられるのか、そんなのわからないし、わがことながら知ったことじゃぁないぜ、と思うている。とにもかくにも会社員であり続けるのは時に心痛を伴うけれど、勤続年数に比例して対外的な信用度は増すよね。住宅ローンの融資も審査は通りやすくなるし、不動産投資のため金融機関に行っても前向きに億単位の融資を検討してもらえる。もう嫁さん欲しいなんて夢、棄却したっていいや、なんて考えたりして。これをわたくしは不適切発言とは考えない。
 もっとミクロなところでいえば、社会人になって学生時代との違いをいちばん実感したのは、娯楽に割けるお金が増えたことです。具体的なところでは、好きな作家の単行本を懐をさして気にせず購入できるようになったこと、観たい映画気になる映画をさしたる逡巡なく鑑賞できるようになったこと(映画館前提)、でしょうか。
 すくなくともわたくしにとってこれらは、生きる愉しみです。時間との折り合いがつかなくて諦めること間々あるけれど件の愉しみが控えているからどうにか生きてゆける。次の休みを心待ちにできる。これらなくしてこの汚濁末法の世を生き抜いてゆく自信はまったくないですね。ちなみに「汚濁末法の世」とは生田耕作先生の言である。
 あと何年、生きられるのだろう。どれだけの本を読み、どれだけの映画を観、どれだけの文章を書き散らせるのだろう。人生は有限である。だからこそ……。◆

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