第2328日目 〈ヨハネの手紙・一第5章:〈悪の世に打ち勝つ信仰〉、〈永遠の命〉他with「一ヨハ」読了の挨拶。〉 [ヨハネの手紙・一]

 ヨハネの手紙・一第5章です。

 一ヨハ5:1-5〈悪の世に打ち勝つ信仰〉
 イエスがメシアである、と信じる人は誰もが神から生まれた人であり、神から生まれた人は同じく神から生まれた他の人を愛するようになります。神を愛し、神の掟を守ることは神の子らを愛することを意味するのです。
 神を愛することは神の掟を守ること。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(一ヨハ5:4)──世に打ち勝つ人とは即ちイエスが神の子、メシアだと信じる人であります。

 一ヨハ5:6-12〈イエス・キリストについての証し〉
 イエス・キリストは水と血を通って、来ました。真理である“霊”がそれを証ししています。
 神が御子に対して行った証しこそ神の証し。御子を信じる人の内にこの証しはある。が、そも神を信じぬ者は御子に対する証しについて知るところはなにもなく、為に神を偽り者に仕立てています。
 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(一ヨハ5:11)
 御子と結ばれている人にはこの命がある。御子と結ばれていない人にこの命はない。

 一ヨハ5:13-21〈永遠の命〉
 わたしがこうして書き送るのは、自分の永遠の命を得ているのだ、ということを悟ってほしいからに他なりません。
 既に述べたように、それが神の御心にかなうことならば願いは聞き入れられます。求めよ、然らば与えられん、というわけですね。このことを理解できるなら、神に願ったことは既にかなえられていることがわかるはずです。
 死に至らぬ罪を犯した兄弟がいたら、かれのため神に願いなさい。かれは神によって命を与えられるでしょう。
 一方で、死に至る罪があります。死に至る罪を犯した者のため神に祈れ、とはいいません。不義はすべて罪、例外はない、かれの前にあるのは避けられない死です。
 「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。」(一ヨハ5:20-21)

 総括としての本章を読み終えて倩思うのは、この世全体が悪い者の支配下にある、てふ一ヨハ5:19の文言です(ノートはしませんでしたが)。
 本書簡は90年代後半から2世紀初頭の成立と推理しました。ドミティアヌス帝によるキリスト教弾圧/迫害があったあとの時代、と考えました。
 ヨハネが手紙の筆を執った時代は件のキリスト者への迫害の記憶が生々しく残っている、まだ歴史的遠近法のなかでそれが古典化していない頃であります(*)。そうした時代に、反キリストについてはまぁともかく、世の支配体制について一石を投じるような言葉で触れるのは相応の覚悟を伴ったのかもしれないなぁ、と憶測。実際はなにも心配することのない、わたくし一人の杞憂かもしれないけれど……。
 ただ、本書簡の史的背景を踏まえた上でかの文言を読むと、あらぬ想像が頭をもたげて暴れるのだ、と詭弁を弄しておきましょう。
 *米澤穂信『氷菓』より表現を借用した。法的道的支障があれば典拠資料を添えた上でご報告いただきたい。善処する



 手紙の体裁を整えないがゆえに回状と推理した「ヨハネの手紙 一」を終わります。ブログの今後のテーマを(改めて)見出し、(ほぼ)確定させられたことは当該日で述べましたが、これはいままさにこのとき「一ヨハ」を読んでいたからこそ摑み得たもの。天に、サンキャー。
 実は本書簡の記事をお披露目中、本ブログに激震が走りました。いつもと変わらぬ記事が公開されたその日、どうした理由でか訪問者数が500人強、PVがなんと30,000以上の記録が樹立されたのです。普段は1/2,1/100程度なのに……。
 どうしてこんなに読まれたのだろう? なにが起爆剤となったのかさっぱりわからないし、新たな固定読者の獲得につながるなんて楽観視はしていない。けれども出された数字は事実以外の何物でもありません。この数字が維持できたら良いけれど、ブログの性質上それは難しそうだ。わたくしに出来るのは、これまで通りのレヴェルの原稿を日々怠ることなく書き、これまで通りの定時更新を愚直に繰り返してゆくだけです。
 既存の読者諸兄よ、新たな読者諸兄よ。そうして、モナミ。わたくしはあなた方のため、あなたのため、そうして自分の救いのために、今後も書く。更新してゆく。あなた方あればこそ、あなたあればこそ──サンキー・サイ。◆

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