第2347日目 〈「ヨハネの黙示録」前夜〉 [ヨハネの黙示録]
新約聖書の最後に置かれた「ヨハネの黙示録」は、新約聖書唯一の黙示文学であります。
黙示文学とはなにか。世人から隠されていた秘儀が覆い(ヴェール)を取り除かれて明らかにされる。それが「黙示」の定義。秘儀とは神が統べ、主がいる天上に属する事柄で、この世が終末の日を迎えて新たな神の国、新たなエルサレムが代わって現れることを指す。黙示文学とはそうしたことどもを象徴的表現を用いて語ったものである。──細かいことをいいだしたらキリがないけれど、黙示とは? 黙示文学とは? と訊かれたら、まずは斯く回答しておけばよいように思います。
付言しますと、旧新約聖書正典のうち、黙示文学に分類されるのは「ダニエル書」と本書の2書。旧約聖書続編まで視野に入れれば「エズラ記(ラテン語)」があります。が、「イザヤ書」から「マラキ書」までの15の預言書も黙示文学の性質を一端なりとも持っている、といえます。それらもまたこの世の終末について語り、神の国の到来を伝える箇所があるからです。
ところで「ヨハネの黙示録」とはどのような書物なのでしょう。著者や執筆年代・場所といったことから筆を起こしますと、──
イエスの母マリアの世話を託された12使徒の1人、ヨハネが本書の著者とされます。ご多分に漏れず別人説もありますが、ここではその問題について立ち入りません。イエスに付き従った12使徒のなかでヨハネはただ1人殉教を免れ、最後まで生き永らえて安寧のうちに息を引き取った、といわれます。1度はローマ兵に捕らえられて処刑が実行されますが、どんな過ちがあったのか、実際死に至ることはなく一命を取り留め、小アジア沖合のパトモス島へ流されます。その後流刑は解除され、ヨハネはアジア州エフェソへ移って庵を結び、死ぬまでそこで暮らした由。
パトモス島にてヨハネは主キリストの言葉を聞き、それに導かれて終末にまつわる幻、ヴィジョンを視ました。が、実際に筆を執り書物として著されたのはエフェソに於いてであった、と考えられます。〈「ヨハネの手紙 一」前夜〉で述べたことの繰り返しになりますが、わたくしには幻視の地パトモス島にて「黙示録」の筆を執るだけの心的物質的余裕(余力、という方がよいか)がヨハネにあったとは俄かに信じられないし、思えもしないのであります。やはり本書は3つの書簡同様、パトモス島での流刑解除後、エフェソ移住後にその地で書かれたのでありましょう。
となれば執筆年代は──ローマ帝国によるキリスト教弾圧がヨハネ流刑の原因となっているのは間違いないけれど、それはネロ帝よりも90年代にそれを実施したドミティアヌス帝の御代であったろう。流刑解除がドミティアヌス帝の御代が終わってからなのか、定かでないけれど、いずれにせよ世紀の変わり目前後であったろう、と推測されます。
パトモス島でヨハネが視た幻は終末にまつわるものであったのは既述の通り。屠られた子羊によって7つの封印が開かれるのに続いて、7人の天使がそれぞれラッパを吹く毎に終わりの瞬間が近附いて来、また神の怒りが盛られた7つの鉢の中身が地上へ注がれる。大淫婦バビロン即ちローマ帝国滅亡とその後の千年王国の訪れ、サタンとの最終決戦、新しい天と新しい地と新しいエルサレムの出現、そうしてキリスト再臨。それらをヨハネは幻視した。
こうした一連の幻は当時のキリスト者の間に漂っていた不安を反映したものでした。ゴルゴタの丘でイエスが死んで以来、キリスト者はずっと主の再臨を待ち望んでいました。それは必ず来る、近い将来に実現する、とかれらは信じ続けた。
が、現実はどうだろう? ナザレ人イエスが十字架上で死んで半世紀以上が経つと、教会の構成員の世代交代も進み、かつての12使徒もその殆どが既に亡く、ローマ帝国による大規模なキリスト教弾圧、信徒の迫害/逮捕/処刑が日常化したような世相にあってはキリスト再臨を疑ったり、信じられなくなってしまったり、希望を捨ててしまうような人も増えたでありましょう。
おまけにドミティアヌス帝は神なる皇帝を礼拝せよ、トラヤヌス帝は死したる皇帝をも神として礼拝せよ、と、キリスト者には棄教へつながるお触れをローマ市民に発布しました。キリスト教迫害の端緒はまさしくこの皇帝礼拝の拒絶にあったのです。
斯様にして当時のキリスト者の抱く不安が幻視に反映し、「ヨハネの黙示録」が執筆された時代背景となったのであります。
そう考えると、本書もまた希望と励ましの書といえるかもしれません。主の再臨は必ずある。それ一点を足掛かりにして、希望と信心の萎えた信徒を励ます側面を本書は持っているのであります。
──「創世記」や福音書と同じぐらい、数多の人々によって、数多の言葉によって、数多の書物によって、「ヨハネの黙示録」は語られてきました。その内容は至極真っ当なものから些か眉唾、キワ物的なものまでが千差万別なこともあって、初学者は聖書全体の最後に鎮座坐す「ヨハネの黙示録」へのアプローチをためらってしまう傾向がある。告白;わたくしとて例外ではない。読書の開始を予定より数日遅らせてしまったのも、要因の主たるところはそこにありました。腰が引けてしまったのですね。
しかし、いまや抜錨の時。これまでに読んできた68の書物同様、本書を読むに際してもキリスト教神学がどうとか譬喩がどうとかなんていう余計な知識に振り回されることはせず──したくてもできない、というのが本当のところですが──、眼前に置かれて開かれている本書、「ヨハネの黙示録」を一つの物語として楽しみながら読むことに重きを置こうと思う。
序にいえば、われらは既に聖書を読む前から「ヨハネの黙示録」に出る固有名詞や表現などに親しんでおります。映画『オーメン』シリーズで悪魔の数字とされた「666」は黙13:8を出典としますし、『幻魔大戦』や『デビルマン』で夙に知られる「ハルマゲドン」は黙16:16に出る地名です。また、慣用句として用いられもする「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」は黙22:13に見られます。それがわかれば少しは気構えも減るのでは?
それでは明日から1日1章の原則で、「ヨハネの黙示録」を読んでゆきましょう。◆
黙示文学とはなにか。世人から隠されていた秘儀が覆い(ヴェール)を取り除かれて明らかにされる。それが「黙示」の定義。秘儀とは神が統べ、主がいる天上に属する事柄で、この世が終末の日を迎えて新たな神の国、新たなエルサレムが代わって現れることを指す。黙示文学とはそうしたことどもを象徴的表現を用いて語ったものである。──細かいことをいいだしたらキリがないけれど、黙示とは? 黙示文学とは? と訊かれたら、まずは斯く回答しておけばよいように思います。
付言しますと、旧新約聖書正典のうち、黙示文学に分類されるのは「ダニエル書」と本書の2書。旧約聖書続編まで視野に入れれば「エズラ記(ラテン語)」があります。が、「イザヤ書」から「マラキ書」までの15の預言書も黙示文学の性質を一端なりとも持っている、といえます。それらもまたこの世の終末について語り、神の国の到来を伝える箇所があるからです。
ところで「ヨハネの黙示録」とはどのような書物なのでしょう。著者や執筆年代・場所といったことから筆を起こしますと、──
イエスの母マリアの世話を託された12使徒の1人、ヨハネが本書の著者とされます。ご多分に漏れず別人説もありますが、ここではその問題について立ち入りません。イエスに付き従った12使徒のなかでヨハネはただ1人殉教を免れ、最後まで生き永らえて安寧のうちに息を引き取った、といわれます。1度はローマ兵に捕らえられて処刑が実行されますが、どんな過ちがあったのか、実際死に至ることはなく一命を取り留め、小アジア沖合のパトモス島へ流されます。その後流刑は解除され、ヨハネはアジア州エフェソへ移って庵を結び、死ぬまでそこで暮らした由。
パトモス島にてヨハネは主キリストの言葉を聞き、それに導かれて終末にまつわる幻、ヴィジョンを視ました。が、実際に筆を執り書物として著されたのはエフェソに於いてであった、と考えられます。〈「ヨハネの手紙 一」前夜〉で述べたことの繰り返しになりますが、わたくしには幻視の地パトモス島にて「黙示録」の筆を執るだけの心的物質的余裕(余力、という方がよいか)がヨハネにあったとは俄かに信じられないし、思えもしないのであります。やはり本書は3つの書簡同様、パトモス島での流刑解除後、エフェソ移住後にその地で書かれたのでありましょう。
となれば執筆年代は──ローマ帝国によるキリスト教弾圧がヨハネ流刑の原因となっているのは間違いないけれど、それはネロ帝よりも90年代にそれを実施したドミティアヌス帝の御代であったろう。流刑解除がドミティアヌス帝の御代が終わってからなのか、定かでないけれど、いずれにせよ世紀の変わり目前後であったろう、と推測されます。
パトモス島でヨハネが視た幻は終末にまつわるものであったのは既述の通り。屠られた子羊によって7つの封印が開かれるのに続いて、7人の天使がそれぞれラッパを吹く毎に終わりの瞬間が近附いて来、また神の怒りが盛られた7つの鉢の中身が地上へ注がれる。大淫婦バビロン即ちローマ帝国滅亡とその後の千年王国の訪れ、サタンとの最終決戦、新しい天と新しい地と新しいエルサレムの出現、そうしてキリスト再臨。それらをヨハネは幻視した。
こうした一連の幻は当時のキリスト者の間に漂っていた不安を反映したものでした。ゴルゴタの丘でイエスが死んで以来、キリスト者はずっと主の再臨を待ち望んでいました。それは必ず来る、近い将来に実現する、とかれらは信じ続けた。
が、現実はどうだろう? ナザレ人イエスが十字架上で死んで半世紀以上が経つと、教会の構成員の世代交代も進み、かつての12使徒もその殆どが既に亡く、ローマ帝国による大規模なキリスト教弾圧、信徒の迫害/逮捕/処刑が日常化したような世相にあってはキリスト再臨を疑ったり、信じられなくなってしまったり、希望を捨ててしまうような人も増えたでありましょう。
おまけにドミティアヌス帝は神なる皇帝を礼拝せよ、トラヤヌス帝は死したる皇帝をも神として礼拝せよ、と、キリスト者には棄教へつながるお触れをローマ市民に発布しました。キリスト教迫害の端緒はまさしくこの皇帝礼拝の拒絶にあったのです。
斯様にして当時のキリスト者の抱く不安が幻視に反映し、「ヨハネの黙示録」が執筆された時代背景となったのであります。
そう考えると、本書もまた希望と励ましの書といえるかもしれません。主の再臨は必ずある。それ一点を足掛かりにして、希望と信心の萎えた信徒を励ます側面を本書は持っているのであります。
──「創世記」や福音書と同じぐらい、数多の人々によって、数多の言葉によって、数多の書物によって、「ヨハネの黙示録」は語られてきました。その内容は至極真っ当なものから些か眉唾、キワ物的なものまでが千差万別なこともあって、初学者は聖書全体の最後に鎮座坐す「ヨハネの黙示録」へのアプローチをためらってしまう傾向がある。告白;わたくしとて例外ではない。読書の開始を予定より数日遅らせてしまったのも、要因の主たるところはそこにありました。腰が引けてしまったのですね。
しかし、いまや抜錨の時。これまでに読んできた68の書物同様、本書を読むに際してもキリスト教神学がどうとか譬喩がどうとかなんていう余計な知識に振り回されることはせず──したくてもできない、というのが本当のところですが──、眼前に置かれて開かれている本書、「ヨハネの黙示録」を一つの物語として楽しみながら読むことに重きを置こうと思う。
序にいえば、われらは既に聖書を読む前から「ヨハネの黙示録」に出る固有名詞や表現などに親しんでおります。映画『オーメン』シリーズで悪魔の数字とされた「666」は黙13:8を出典としますし、『幻魔大戦』や『デビルマン』で夙に知られる「ハルマゲドン」は黙16:16に出る地名です。また、慣用句として用いられもする「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」は黙22:13に見られます。それがわかれば少しは気構えも減るのでは?
それでは明日から1日1章の原則で、「ヨハネの黙示録」を読んでゆきましょう。◆
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