第2366日目 〈ヨハネの黙示録第19章2/2:〈小羊の婚宴〉&〈白馬の騎手〉withお帰り、iPhone6S。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第19章2/2です。

 黙19:-10〈小羊の婚宴〉
 わたしは聞いた、玉座からの声を。神を畏れよ、神を讃えよ、大きな者も小さな者も等しくわれらが神を讃えよ。
 わたしは聞いた、群衆の和した叫び声のようなもの、多量の水の轟きや激しい雷のようなものがこういうのを。曰く、──
 ハレルヤ、全能者にしてわれらの神なる主が王になった。神の栄光を讃えよう。歌おう、喜びを! 「小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。/花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。/この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」(黙19:7-8)
 天使がわたしにいった、書き記せ、小羊の婚宴に招かれている者は幸いである、これは神の真実なる言葉である、と。
 わたしは思わず天使にひれ伏そうとした。が、天使はそれを留めた。あなたがひれ伏し、礼拝するべきは神のみである。わたしはあなた方イエスの証しを守る人々と同じで、仕える者なのだから。「神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(黙19:10)

 黙19:11-21〈白馬の騎手〉
 わたしは視た、天が開かれているのを。白い馬が現れた。乗り手は誰か、どのような者か。それは「誠実」と呼ばれ、「真実」と呼ばれる。正義を以て裁き、戦う。乗り手の目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴く。乗り手には、自分の他は誰も知り得ぬ名が記されている。纏う衣は血に染まっており。かの乗り手は「神の言葉」と呼ばれた。これに従うは白い馬に乗り、白く清い麻の布を纏った天の軍勢である。
 白の乗り手の口からは鋭い剣が出ていて、これで諸国の民を討ち倒す。白の乗り手は自ら鉄の杖を振るって諸国民を統治する。また、白の乗り手は自らぶどう酒の搾り桶を踏むけれど、そこで作られたぶどう酒には神の、凄まじく激しい怒りが詰まっている。白の乗り手、この方の衣と腿のあたりには「主の主、王の王」てふ名が記されていることを知れ。
 わたしは視た、太陽のなかに1人の天使が立つのを。わたしは聞いた、この天使が空を飛ぶすべての鳥にこう呼び掛けるのを。曰く、──
 「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」(黙19:17-18)
 わたしは視た、底無しの淵から這いあがってきたあの獣と、地上の王とその軍勢から成る連合軍が、白の乗り手とその軍勢に立ち向かうために集結しているのを。が、獣は捕らえられた。獣の前でしるしを行った偽預言者も捕らえられた。獣の刻印を押されたり、獣の像を拝んでいた者らは惑わされていたのだ、他ならぬこの偽預言者が行っていたしるしにより。
 「獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。」(黙19:20-21)

 かつて様々な書物のなかで予告されていた神なる主による裁き、顧みられることのなかった隅の親石即ちキリストが地上の王権に対して勝利を収めることが、つるべ打ちのように提示され、かつ具体化してきています。
 そうしてこれまでに読んだいろいろな場面や表現が、本章にて頻出するのにも気附かされます。黙19:15aと同1:16及び2:12(口から鋭い剣が出ている)、黙19:15bと黙同2:27(鉄の杖で治める)、黙19:15cと同14:19-20(ぶどう酒の搾り桶)がそうです。この傾向はまだ続き、こうした点からも本書が最後のコーダを築きつつあることを実感させられることであります。
 ただ記憶の残滓となっているだけあり、ずいぶんと探してしまいました。数日前に読んだ記憶が実は「ヨハネの黙示録」読み始めの頃であったり、少し前に読んだと思うたらつい2、3日前であったり、と、成る程、記憶とはまったく以て頼りにならぬ場合があるようです。
 ──花嫁として描かれるのがキリストなのは勿論ですが、〈白馬の騎手〉に出る白の乗り手もまたキリストのことでありましょうか。そうであってなんら矛盾するところはないと思います。
 引用した黙19:17-18は「エゼキエル書」に基づく表現であります。しかしながら意味するところは正反対でございまして、「エゼキエル書」で鳥が食べるのは神の民、意味するところは迫害であります。一方本書では獣に従う人々が鳥に食べられる、即ち裁きとなります。「ヨハネの黙示録」の著者が旧約聖書に精通しているとは何度もいうてきたことですが、この箇所を読んでいると精通しているばかりでなく、余程の文章の得手でないと斯様な視点の置き換えはできないだろう、と、その才に感服するのでありました。

 本日の旧約聖書は黙19:15bと詩2:8-9、黙19:5cとゼカ14:2-5及びヨエ4:2並びに同12、黙19:17-18とエゼ39:17-20。



 わがiPhone6Sに災い発生。昼休憩時、財布と文庫とスマホを持って外へ出た。EVホールにてスリープ状態を解除しようとしても、iPhone6Sはうんともすんとも答えない。どうしたことか。すはAppleタイマーの発動か。充電が切れたとは考えられない。もしそうならば、画面は沈黙したままではないはずだ。ホーム・ボタンを長押ししてもスリープ・ボタンを押し続けても、やはりいっこう反応はなく。カバンをロッカーにしまう際気附かぬうちに衝撃を与えてしまっていたか──否、同じくカバンに収まるMBAは正常に動作している……。
 研修が続くなか、iPhone6S本体がどうなったか、というよりも、なかのデータがどうなっているのかについての不安が高まり、胸の内を占めてきた。心配なのは連絡帳と写真とLINEだ。昨日はバックアップが取る時間を割けなかったのだ、わたくし側の一方的事情により。よりによってその翌日にこのトラブルだ。仕事は仕事と割り切ってみても、どうしても気に掛かってしまう。あなたの写真が消えてしまうのは身を切られるよりも辛い。そうなったらいったいわたくしはどうしたらいいんだい、モナミ?
 そうして定時になるやわたくしはいつものようにいそいそと退勤し、通勤で使うのとは別な地下鉄に乗って有楽町/銀座を目指した。この途中で行く手を阻む様々な出来事があったのだけれど、それらについての詳述は省こう。わたくしは無駄話が嫌いなのだ。呵々。
 ──ぴん、と来た方もおられよう、駈け込み訴えの先はApple Store銀座店。初めての聖地巡礼がこうした形で実現するとは思いもよらなんだ。
 汗たらたらの姿で店内に突入したわたくしは、勝手知ったる様子で1階の人混みを突破して、人待ち顔なEVを華麗にスルー。隅っこに設けられた階段で一気に4階、ジーニアス・バーへ。
 そこで修理の受付待ちの列に並ばされること約1分弱、一部が囓られたリンゴを控えめにあしらったネイビーブルーのTシャツを着た髭面好青年が近寄って来て曰く、どうしました? と。かくかくしかじかなのじゃ、とわたくしは伝える。すると青年はわがiPhone6Sを手にし、ホーム・ボタンとスリープ・ボタンを同時に長押しし始めた。それから約1分。それやったよ、と心のなかで呟きかけたわたくしの目前で、真っ黒だった画面に白いリンゴマークが誇らしげに浮かびあがったではないか!? ハレルヤ、奇跡は起こったのである。青年曰く、急激なシャットダウンがされた場合に起こりがちな症状であるらしいが、うむ、すまん、わたくしにはよくわからぬ。
 理由はともあれ、しかしわがiPhone6Sは治った。復活したのだ。よもやこれが日本時間午前2時からアメリカで開催されるイヴェントでのiPhone7発表に併せた、かれなりの抗議運動であったとは思えぬ。もしそうならば、このiPhoneはAIよりも遥かに人間に近く、また人間臭いといえるのではあるまいか。ファティマみたい? 嗚呼、残念ながらあすこまで優秀ではないし、自身愛情も寄せられぬ。
 ともあれ、お帰り、iPhone6S。データ消滅を免れたことに喜びを。そうして感謝を──Apple Store銀座店の青年、ジャック・バウアー似の貴男へ。かれの手はマジック・ハンド。かれはハンド・パワーの持ち主じゃ。◆

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