第2371日目 〈聖書の読了にあたって。〉 [終わりのあいさつ]

 2008年9月9日から2013年12月16日。
 2014年1月11日から2014年12月28日。
 2015年1月10日から2016年9月10日。
 これらの日付がなにを示すか、おわかりでしょうか。概ねお察しのことと思うので、さっさと正解を発表してしまいますが、聖書の読み初め日と読了日を列記してみたのであります。上から順番に旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書となります。
 足掛け8年、実質7年を費やして達成した聖書読書ですが、この間にあった種々の出来事を思うと、巧まずして深く、苦い溜め息が出て、唇を引き結び、自然と目は据わり、憂慮に沈んでしまいます。良いことよりは嫌なこと、腹立たしいこと、悔やまれることの方がずっと多かった。好かれることもあったけれど、傷附けられたり、裏切られることの方が遥かに多かった。忘れられない人と出逢った。忘れたくない人々との出会いがあった。思い出すのもはらわた煮えくり返る輩にも会った。世界中の人々を敵に回してでも守りたい人に逢うた一方で、世界中の人々を味方に付けて破滅と社会的抹殺を望む輩と面識を持ってしまった。
 が、しかし、斯様に様々な出会いと経験をしてきたから、現在のわたくしがいます。振り返ってみれば良きことも悪きことも、甘いことも苦いことも、すべての出会いと出来事が自分の糧になっている事実を否定する気はまったくなく、却ってそれらの1つ1つにわたくしは心からの感謝をささげたいのです。終わりよければすべて良し、という言葉がいちばん近いかな、本心に。多くの出会いと経験、それらを全部自分の養分として併せ呑んできたからこそ、いまの自分がいる──それは第三者がどのようにいおうと動かすことのできない事実なのであります。
 では、聖書読書はわたくしにいったいどのような影響をもたらしたでしょうか。自己分析は苦手ですが、恥ずかしい思いをしながらも過去8年の自分を回想してみると……平穏な性格になったかな。春っぽい、という方がいいかな。どちらにせよ、<くまのプーさん>とあだ名されても否とは申せません。心中はどうあれ、外見や口調など対人ツールは努めて温和でいられるようになった、と思います。以前は性格も口の利き方も凶暴でしたからなぁ、今風にいえば中二病患わせたまま大人になっちゃった、的な? 呵々。
 閑話休題。
 聖書を読み、その世界に入り、そこの人々と時空を越えて触れ合うたことが、知らぬ間に自分を変えていったのでありましょう。自分を見てくれている誰かの目に正しいと映ることを弛まず行い、自分の道を正直に、礼節を持って歩むこと。信仰と希望と愛、それを心のなかで大切にして今日を精一杯に生きること。聖人たちの心、行いに倣うべきところは倣うこと。それらのことが、聖書の読書が進むにつれて徐々に、ゆっくりと、着実に自分のなかに染みこんでき、知らず自己変革がされていたのでした。キリスト者になることは遂になかったけれど、こうして聖書全巻を読み通したことで却ってキリスト教について、イエスについて、偏りのないニュートラルな視点と思考は獲得できたのではないか、と自負しております。
 さっき、「足掛け8年、実質7年」と書きました。内訳についてはご存知の方もいようけれど、そうでない方も読者のなかにはおられますので、最後にそのことだけ書いておきます。空白の、欠落した1年の間にわたくしは左右の耳に突発性難聴と一時的な完全失聴を経験した。それに悩み、自棄になり、筆を捨て、人生を捨てようとしました。それは、聖書を開くことのない1年でもありました。でも辛うじて、日常生活に指して支障のないぐらいまでに聴力は回復してくれました。天の恵みに、サンキャー。そうしてわたくしは再び聖書を手に取り……今日へ至るのです。
 これまでにいろいろなことがあったけれど、どうにかこうにか、このように喜ばしい日を迎えることができました。が、わたくしはこれを以て聖書と訣別したわけではありません。これまでのように毎日とはならないでしょうが、これからも机辺に置いて、或いは枕頭に侍らせ、愛読してゆきます──そのためにはボロボロになってページが糸から外れかけている、8年の間毎日持ち歩いて酷使した新共同訳ではなく、新しく購入したものになっているかもしれませんが。◆



 追伸
 明日は主要参考文献の、明後日は読書地・執筆地のリストをお披露目します。□

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