第2506日目 〈『ザ・ライジング』第4章 26/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 白井は身をよじらせ、池本の体を思い切り払いのけた。唇をごしごしこすって、少しでも池本の残り香を消そうと躍起になった。だが、唇に残った感触は、なかなか消えてくれそうもない。希美とのキスではついぞ感じたことのない嫌悪感が襲ってきた。
 池本がなおもすがりつこうと白井に寄ってきたが、彼はそれをも乱暴に払ってみせた。その反動で池本が敷き詰められた砂利の上に転がった。
 「やめろよ、この色情狂! くそ、汚らわしいっ!!」
 (汚らわしい? この私のキスが?)
 憎しみに燃えた瞳で池本が白井を睨んだ。彼はこちらへ背中を見せ、立ち去ろうとしていた。
 (殺してやるつもりだったのよ。だから、あんなにしおらしく謝ったのに――)
 「――白井、あんたこそ何様のつもりよ!」
 レンチを振りかざして池本が、白井の背中に詰め寄った。白井は彼女の気配を察すると振り返った。彼の目に映ったのは、鬼女のような形相をした池本の姿だけだった。
 次の瞬間、額に鈍い痛みを感じた。頭蓋にまで響くような、しびれを伴う痛みだった。白井の足がよろめく。続いて、左耳に一撃。
 肩に、ぼこっ。首の後ろに、ぼこっ。
 刹那、たたらを踏んだかと思うと、白井はうつ伏せになって倒れこんだ。砂利の飛び散る音が、やけに大きく耳に響いた。
 馬乗りになって池本が、何度も何度も白井の後頭部を力任せに叩いた。何発も、何発も。
 「くそ、思いしれ! 私の苦しみを!」
 無我夢中になって打ち叩く。呼吸が乱れて吐く息が白濁して消え、心臓がとてつもないスピードで早鐘を鳴らしている。気づくと手にしたレンチは血にまみれ、コートやストッキング、顔や髪のあちらこちらに返り血が飛んでいる。
 白井はうつ伏せのまま、血を流して倒れている。左耳の後ろの付け根は鋭く切れて、血がとめどなくあふれていた。後頭部は右半分が陥没し、ぱっくりと十センチ強の傷口が開き、細い線状の無数の神経が散り舞っている。頭蓋骨は内側にえぐられて脳漿へ突き刺さり、シロップのように粘り気のある血の湖が広がっている。どれだけ時間が経っても、その体が動く様子はなかった。
 ――しばらくは放心したように白井の死体を見おろしていた池本だったが、やがてぺたんと地面に崩れ落ちた。うつろな視線が白井の左の薬指で止まった。これまで気がつかなかったものが見える。彼が恋人に贈ったのと同じ指輪だった。
 池本はそっと目を閉じた。どれぐらいそうしていただろう、閉じられていた目蓋が、ぐわっ、と見開かれた。そして、頭をのけぞらせて、彼女は狂ったように笑い始めた。冬空にその声は不気味に響いた。
 それを聞いてなにごとか、と境内をひょいと覗いた会社帰りのOLが悲鳴をあげても、池本の笑い声は収まりそうになかった。OLの通報で警察が駆けつけ、池本玲子が逮捕されたのは、それから十分と経たない頃であった。□

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