第2509日目 〈『ザ・ライジング』第4章 29/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ……日も暮れて空に夜の帳が降りつつあった頃、二人は駅前のバス停にいた。それはつまり、池本が白井の額に最初の一撃を加えた頃でもあった。
 「大丈夫だよ、心配しないで」と希美は答えた。友人を心配させまいと無理に作った笑みは、却って藤葉を不安にさせるだけだった。「平気よ、一人で帰れるから」
 「うん。……わかった」もう一度訊けば希美は考えを変えるかもしれない。が、それもなんだかためらわれてしまった。
 沼津港行きの停留所にバスが停まった。鈍い音に一瞬遅れてドアが開き、女声のアナウンスが洩れ聞こえてくる。待っていた十人ばかりの人々の列が、のろのろと動き始めた。
 「じゃ、帰ったら私の携帯に電話して。ね?」
 「うん、わかった。必ず連絡するよ」
 ステップに足をかけながら、希美は藤葉の方へ向いてそういった。口許に浮かべた笑みと瞳に浮かんだ哀しげな色が妙にアンバランスで、藤葉は理由知らず息を呑んだ。
 しばらくして希美が、一段高くなっているいちばん後ろの座席に坐るのが見えた。ややあってバスが動き始める。窓ガラス越しに「じゃあね」と手を振った希美の姿が、だんだんと遠くなってゆく。ふと藤葉は、もう希美とは一生会えないのではないか、という不安な気持ちに襲われた。

 藤葉の姿がビルの陰に隠れて見えなくなると、希美は坐り直してうつむきながら、目蓋を閉ざした。さっき上野に犯されたのが未だに信じられずにいる。他のことを考えようとしても、頭の中のもやもやは晴れず、なにも考えられそうにない。胸の奥がちくり、と痛み、腹の底から不快感がこみあげてきた。少しの間、掌で口を押さえてみたが、どうやら吐くところまではいかなかったらしい。が、それでも全身にのしかかってくるような気持ち悪さと気怠さは相変わらずで……。
 希美はより固く目蓋を閉じ、窓に頭をもたれさせた。泣くもんか、と口の中で呟いた。こんな公衆の面前で涙を流してたまるものか。泣くならあの人の前、正樹さんの腕の中でしよう。それまではこらえなきゃ。 
 ――帰ったら電話しなくちゃ。ふーちゃんよりも先に、あの人に。未来の夫に。
 今夜はずっと一緒にいてほしい。あの光景を、陵辱者の顔を、あの感覚を思い出すと、一人で寝ることなんて出来そうもない。そう、今夜、あの人に自分を捧げたっていい。正樹さんに抱かれよう。それでこの汚れてしまった体が清められるなら、二人で交わした約束にいったいなんの意味があるだろうか。
 そう決めてなお、汚辱にまみれた喪失感は心の底に巣喰って残った。――希美は鞄からMDプレーヤーを出してディスクを入れ替えると、イヤフォンを耳にかけて再生ボタンを押した。SMAPの《世界に一つだけの花》が流れてきた。
 希美を乗せたバスは、アーケード商店街を抜け、下本町の交差点を通り過ぎていった。□

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