第2517日目 〈『ザ・ライジング』第4章 37/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 最後の食器を拭き終わり、棚にしまったその瞬間、なんの前触れもなく雷があたり一帯に鳴り響いた。鼓膜を破らんばかりに轟いた雷は、どこかとても近くに落ちたらしい。地響きが足許から伝わってき、家具が揺れ、電気の傘が振り子のようにあちらこちらへ揺れている。すべての電化製品の電源が一斉に飛び、視界のまったく効かない世界が、予告なしに訪れた。
 その静寂のほんのわずかの間隙を縫って、かすかながら幾人ものざわめき声が聞こえてくる。耳をすましてようやくそれとわかるぐらいの距離だったが、そのざわめきは二軒右隣の沢森宅からだった。なおもじっとしていると、だんだんはっきりと声が耳にできた。どうやら、庭に植わるご自慢の松の大樹に雷が落ちたようだった。
 あれ、と希美は小首を傾げた。真里の声が混じって聞こえる。あの騒々しいわめき声は間違いない、と希美は確信した。真里が沢森宅に行っている。想像するに、消火作業に、無精無精駆り出されたのだろう。これはちょっと事件だった。あのわめき声も、おそらくは沢森夫人と口論でも始めたのかもしれない。沢森のお姉ちゃんと真里ちゃん、小学生の頃から仲が悪かったもんなあ。あの二人の喧嘩に巻きこまれるたび、いちばん年下の希美は困った立場に立たされた。二人の間に挟まっておろおろしていると、決まって最後は、あんたどっちの味方なの、と詰め寄られた。そのたびに希美は、知らない、と叫んで家に逃げ帰ってきたものだった。
 いろいろあったよねえ、と希美は小さい頃のことをふと思い出して、苦笑した。子供の頃はよく遊んでもらってたけど、やっぱり沢森のお姉ちゃんがいちばん年上だったせいかな、だんだんと顔を合わせる機会も少なくなって、話すこともなくなっていった。そこら辺が私と真里ちゃんの結びつきの違いだろうけれど、真里ちゃんは知ってるかな、パパとママが死んじゃったとき、いちばん最初に駆けつけて慰めてくれたのは、沢森のお姉ちゃんだったんだよ。
 それにしても、男の声が全然聞こえてこなかった。いや、聞こえてくることは聞こえてくるのだが、それはいずれも真里の父であったり、お向かいのおじさんであったり。沢森夫人の夫の声は、どれだけ耳に神経を集中させてみても、まったく聞こえなかった。やっぱり噂は本当なのかしら、と希美は思った。気の強い奥さんに閉口して(おまけに婿養子だし)同じ会社のOLさんと不倫してる、って噂。あの広い家にお婿さんと二人で住んでるんじゃ、特にこんな晩は――いくら沢森のお姉ちゃんであっても――不安で仕方ないだろうな。旦那さん、早く帰ってきてあげればいいのに。私は、と希美は力強く頷いた。私はああいう風にはならないようにしよう。正樹さんに浮気なんかさせるものか。
 さて、それはともかく。
 家は大丈夫だろうか。希美の心へ俄に不安が生まれ、あっという間に広がっていった。ふと見ると、セキュリティ・システムは作動していない。当たり前だ。雷が落ちて、すべてのブレーカーが飛んでしまったのだから。それにこれは対人用に作られたものであって、その敷地内で火事が起こったりしてもよほどの大事にならない限り、生真面目に動いてくれる代物ではない。希美はストーブを消すと、仏壇から鍵を掴み、懐中電灯を下駄箱から出して玄関ドアを開けた。
 空を見あげると、真っ黒くて層の厚い雨雲が低く垂れこめている。ときどき、雲が薄くなっているところから、青白い輝きがゼラチン状の皮膜を透かしたように光っているのが見えた。低音で唸るモーターに似たごろごろという音も聞こえる。希美はドアを閉めて鍵をかけ、ポーチに立って左右へ懐中電灯の光を走らせた。いつもと変わらぬ光景が、光のプールに浮かびあがって消えてゆく。小さく頷いて、小走りに門扉の所へ行き、階段から自転車置き場になっている小屋を照らしてみた。うん、異常なし。続いてポーチへ戻って通り越し、いまはプランターを並べて家庭菜園になっている嘗ての駐車場から庭の方を覗き、懐中電灯を向けた。こちらも異常なし。業務報告。希美ちゃん家はなんの異常も見受けられませんでした。以上、報告終わります。
 沢森宅からは相変わらずざわめき声がやまない。でも鎮火したらしく、一瞬感じた焦げ臭い匂いはしなかった。それに、男の人の声がする。あ、お婿さん、帰ってきたんだな。真里は早々に退散したらしく、ともかく声はしなかった。
 パジャマを着た風呂あがりの体が雨に濡れている。またお風呂に入り直すのも面倒だな。二度風呂なんて、そんなもったいないことできないよ。早足で五段あるポーチの階段を一気に昇った。ポケットから鍵を取り出してノブの鍵穴に差しこむ。かちゃっ、という耳馴れた音がしたのとほぼ同時に玄関ドアを開けて中に入り、鍵とチェーンをかけた。□

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